『Master of Evil』読後感:痛みと共に在れ

カノン小説
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「邪悪の主」かく生まれり?

2025年11月11日に刊行された小説『Master of Evil』。このタイトルを耳にして真っ先に思い浮かぶのはやはりEP4『新たなる希望』でのオビ=ワンの台詞、

「Only a master of evil, Darth」(邪悪のマスターに過ぎんぞ、ダース)

『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望』より

でしょう。

ダース・ベイダー。かつて“選ばれし者”と呼ばれ、光の騎士として最高の期待を背負いながらも闇へ堕ちていった男。彼はいかにして「光の騎士」から「邪悪の主」へと変貌したのか。タイトルはそんな想像を掻き立てるものでしょう。

しかし、本作は多くのファンが想像する“王道の流れ”とは、良くも悪くも少し異なる方向性を取ります。今回はその特徴や読みどころ、そして理解を助けるSW関連の設定をまとめたうえで、最後に本作のベイダー像について夏目漱石のある作品と軽く対照しながら考察して行きます。まずはネタバレに触れない範囲で簡単なあらすじを紹介して行きましょう。

SWの「邪悪の主」として登場したベイダー。しかし今や彼は光と闇、善と悪の「葛藤の象徴」として君臨している。

本作のあらすじ(ネタバレなし)

物語の舞台はEP3直後の19 BBY。タイトルや装丁から受ける印象と異なり、本作の主人公はダース・ベイダーその人ではありません。もちろん彼は物語の中心であり、全編にわたって巨大な存在感を放ちますが、「物語の語り手」として読み手と共にその足取りを辿って行くのは深紅の装いが印象的なインペリアル・ロイヤルガードを率いるハランド・ゴス大佐なのです。

彼は帝国中枢組織であるCOMPNOR(Commission for the Preservation of the New Orderの略。ニューオーダー保護委員会)を通じて「ダース・ベイダーを監視せよ」という皇帝直々の命令を受けます。戸惑いながらもベイダーと行動を共にすることになる彼は、次第にベイダーの驚くべき正体を知り、そしてこの皇帝の腹心が密かに追い求める、とある大いなる力の存在と、それが引き起こす騒動に巻き込まれて行くのでした。

本作では謎に満ちた近衛兵の一人の内面がフォーカスされる
COMPNORは帝国官僚機構を掌握し、各分野に影響力を揮う

著者はアダム・クリストファー。21 ABYつまりEP6と7の間を舞台に、幼いレイを巡るルークとランドの冒険、さらにはシス・エターナルの暗躍を描いた小説『シャドウ・オブ・ザ・シス』で知られている作家です。

小説家・漫画家、そして熱心なSWファンとしても知られる作者
代表作『Shadow of the Sith』はシークエル三部作を補完する重要作品のひとつ

本作の時間軸は、同じく帝国初期のベイダーの動静を描いたコミック・シリーズ『シスの暗黒卿』第1ストーリーアーク「帝国の爪牙」と、第2ストーリーアーク「潰えた遺産」の間に位置づけられています。つまり、キラック・インフィラからカイバークリスタルを奪い、ムスタファーで“ブリーディング”(カイバークリスタルを奪って”出血”=Bleedingさせて支配下に置くシスの通過儀礼)を施した直後。そして尋問官たちと出会う前の、いわば“ピカピカ組”のシス卿だった頃のベイダーが描かれるのです。しかし、『シスの暗黒卿』シリーズを読んでいなくても本作の理解に支障はありません。ただし、後述するように本作の核となる“ベイダーの内面変容”に関して、コミック最終ストーリーアーク「ベイダーの城」との対比で読むとより興味深いものがありますので、併読をお勧めしたいと思います。

EP3の”直後”から始まるベイダーの軌跡第一歩を描く『帝国の爪牙』
尋問官たちとの出会いと軋轢、ジョカスタ・ヌーとの戦いを描く『潰えた遺産』

本作の特徴:コミックと小説

本作は”ベイダーが主役”の物語であるにもかかわらず、ベイダー本人の内面描写はほとんど存在しません。後半の一部分を除き、物語はあくまでゴスを始めとする「第三者の視点」から描かれ、読者は彼らが観察したベイダーの言動を通して、その内面を推測する構造になっているのです。この読み味は、ビジュアルとして描かれる“外側からのベイダー”を通して、その胸中を推し量ることを要求されるという点で、コミック『シスの暗黒卿』とよく似たアプローチが求められると言えるでしょう。しかし、このことは本作が小説として“薄い”という意味ではありません。むしろ、周囲の人々の内面が濃厚な筆致で描かれることによって、彼らに投影されるベイダー像そのものが非常に濃密な存在として立ち現れると言えるのです。そしてそれは当然コミック以上と言うべき迫力をもって読み手に迫ってくるのです。

この構造は、いわゆる「外的焦点化」による語りと言えるでしょう。古典作品では『アーサー王伝説』や『ドン・キホーテ』、ダシール・ハメットのハードボイルド小説、あるいは東野圭吾の『白夜行』などに見られるような、主人公の視点をあえて描かず周囲の人物の視線を通してのみ“中心人物”を描く手法です。ダース・ベイダーという光と闇を抱えた謎めいたキャラクターを描くうえで、この手法は非常に相性が良いと言えるのではないでしょうか。

本作を読んでいて頭に浮かぶのは、こちらもほぼ同時期のベイダーを描いたレジェンズ小説『暗黒卿ダース・ヴェイダー』ではないでしょうか。名レジェンズ作家ジェームズ・ルシーノによるこの作品は、ベイダーの胸中や苦衷、その師シディアスの思惑、その他彼らを取り巻く関係者たちの内面描写が彼ら自身の視点で過不足なく語られる物語で、師弟関係や帝国初期における登場人物たちの位置づけを、その一冊で把握できる名作でした。しかし飽くまで個人的には、あれほど強大で象徴的なキャラクターたちの内面があまりに“見えすぎる”ことに、わずかな物足りなさもあったのでした。

その点、本作はベイダーもシディアスも“外側から見える範囲だけ”で描かれ、その胸中は必ずしも確かなものではないため、この物語の中心、そして銀河の頂点に位置する二人の巨頭の計り知れなさが際立ち、読み手の感受性や「SW歴」に応じて様々な捉え方が可能という柔軟性に富んだ存在として立ち現れるのです。

各キャラの内面、位置づけが詳細に描かれる名作レジェンズ小説のひとつ
本作ではひとあじ異なるベイダー像が描かれる

“主人公”ハランド・ゴス

さて、中心人物たるベイダーが第三者目線で描かれるということは、その第三者の役割を担う人物の重要性は計り知れません。そんな本作きっての重要人物は、前述の通り彼の護衛兼密かな監視役に抜擢されたハランド・ゴスです。これはもちろん本作による「後づけ設定」ですが、じつは彼はEP3本編にも一瞬だけロイヤルガードの一人として登場しており、パルパティーンがアナキンに「死を欺いたシス」ダース・プレイガスの伝説を語るシーンに立ち会っているのです。

興味深いのは、その場で語られた「死を欺いた男」の伝説が、アナキンだけでなくゴス自身にも強い印象を遺していた点です。彼は未だ銀河で完治した者が存在しないという不治の病に侵されており、それを巧妙に隠しながら生きていたのです。帝国の備品としてもらい受けながら、各種の違法改造によって通常の範囲を大きく逸脱した”自由”な人格を備えるようになったプロトコルドロイドTC-99、通称”ナインズ”を看護ドロイドとして相棒にしながら、密かにこの不治の病の克服方法を探しているのです。

そんな重病患者である彼は、なぜそれを届け出て休職し、療養に専念しないのでしょうか。それは彼が「帝国に奉仕する」という生きがいを失いたくないからなのです。とはいえ、それによって彼が読み手である私たちにとって理解し難い人物であることにはなりません。なぜなら彼は「あわい」に立つ人物だからです。彼は帝国が掲げる「安全、安定、正義、平和」というスローガンに代表されるその大義を信じ、その実現のために身を粉にして働きたいと願っている忠良な帝国軍人です。しかしその一方でオーダー66に立ち合い、幼い子供までが虐殺された現場に居合わせたことで言いようのない罪悪感を抱き、その痛みが棘のように心の奥底に深く突き刺さっているのです。それによって彼はジェダイの破滅と帝国樹立を祝う栄光ある式典の最中に生きながら炎に身を焼かれるという悪夢に苛まれさえしたのでした。

それでも帝国の理想を信じる彼はしかし、帝国の中枢で権勢をほしいままにするCOMPNORに対する言いようのない不信感を抱くなど、静かな違和感や葛藤を抱えて行くこととなります。帝国に忠誠を誓う”悪役”の側に身を置きながら、それでも自らの”正義”を信じ、しかし倫理的な揺らぎや葛藤を捨てきれずにいる男。そんな複雑な性格が、彼を主人公として魅力的な人物にしていると思えるのです。

EP3に登場したハランド・ゴス(と思われるインペリアル・ガード)
ゴスの相棒を務めるTC-99と同じTCシリーズに属すプロトコル・ドロイドの同機種。3POシリーズの前身。

時計仕掛けのキーパーソンたち

さて、主人公ゴスの魅力については以上ですが、そんな彼を取り巻くキャラクターたち、とくに相棒ドロイドのナインズは、本作の面白さを一段階引き上げてくれていると言えるでしょう。違法改造の果てに通常の範囲を大きく逸脱したドロイドだということはすでに触れましたが、その内実は非常に興味深いものです。もちろんSWにおいて既定のプログラムを逸脱した人間臭いドロイド”というのは「お約束」といっていい存在でしょう。しかし本作のナインズはひと際特殊な性質を秘めています。彼は各種ドロイドの人格マトリクス、つまりドロイドたちの人格を司る「魂」に相当するプログラムを取り込むことで、それらの持ち主であったドロイドたちの知識や技能を自分のものにしてしまえるのです。よってナインズは、外見は平凡なプロトコルドロイドでありながら、その中身は必要に応じて職能を切り替えることのできる万能ドロイドなのです。

とはいえ便利この上ない彼には一つの不穏な面影も宿しています。本来人格マトリクスの取り込みはプログラムの”上書き”に等しく、そのドロイドの人格が丸ごと入れ替わってしまうほどのことなのです。しかしゴスの改造はナインズを”主人格”として保持しながら、複数のマトリクスから知識と技能のみを引き出すという離れ業をこなしているのですが、ときにそのバランスが崩れ、内部から別の人格ならぬ”ドロイド格”が出てきてしまうのでした。

このような、様々なフラグと受け取れる有能な、だが危険な香りのするナインズを相棒として、ゴスは日々密かな闘病生活を続けていたのでした。はぐれ者の主人公と型破りな相棒ドロイド。このSWの「お約束コンビ」と言ってよい彼らはしかし、SWにおけるドロイドという存在の“新しい立ち位置”を象徴しているようにも思えます。

レジェンズ・ファンに馴染み深いダッシュ&リーボ
最新作『ビジョンズ3』の記憶も新しいセブン&IV-A4

なぜなら本作では、あるドロイドが物語の鍵を握るからです。それも、高度な知性ゆえに人間の意図を軽々と飛び越えた行動を取り始めるような、“危ういくらいに賢いドロイド”が。

SWでは、レジェンズ時代の「ドロイド大反乱」や、IG-88が仕掛けたドロイド反乱計画のように、“機械の脅威”を扱った古典SF的な物語が存在してきました。近年のカノンでも、コミック『ダーク・ドロイズ』や、『ハン・ソロ』に登場したL3率いる労働ドロイドの反乱、あるいは自らの権利を主張するドロイド集団「ドロイド・ゴトラ」など、機械知性の自立や反逆が、現代的な風味とともに再生産されています。

ドロイドたちの脅威を描く『Dark Droids』
”同胞”を率い、ケッセルの奴隷労働からの解放を成し遂げたL3
「ドロイドの権利」を訴えるポスター

そして現代社会を生きる私たちもまたAI技術の恩恵を受けつつ、その急激な発達にどこかしら不安を覚えていると言えるでしょう。いわゆる“AI汚染”への懸念や、シンギュラリティの影が現実味を帯びてきた今、SWで展開する“ドロイドの反乱”は単なるSFの枠を超え、妙に現実的な響きを帯びて聞こえてしまうのではないでしょうか。

本作の主題はもちろん「ベイダーとその周囲を取り巻く者たちが辿る精神的な旅路」なのですが、その一方でドロイドたちが巻き起こす事件や不穏な気配も、物語に現代的な風味を与えており、読んでいて実に手に汗を握るものがあるのです。

本作のマクガフィン:ヴァージェンス

そして、そんな個性と魅力ある主人公たちが巻き込まれることになるのは、有体に言えば銀河を股にかけた「お宝さがし」と言えるものです。

「お宝」の役割を担うのは辺境惑星ディソに存在した暗黒面の力を秘めた神殿、つまり「暗黒面のヴァージェンス」です。EP1でクワイ=ガンはアナキンその人を「フォースのヴァージェンス」と呼びました。「フォースの集中」と訳されたこの言葉のより精確な邦訳は「輻輳」という耳慣れない言葉ですが、単なる「集中」ではなく「混雑・混線しているような極端な密度」といった意味の言葉です。

このヴァージェンスは銀河にあまねく存在するフォースのなかで自然発生し、小さな場所から惑星規模、果ては人間という個体の形を取るとされています。近年の作品では、『アコライト』で惑星ブレンドクの異常な生命回復が“ヴァージェンスの存在”によるものではないかと推測されたことが物語の発端となり、EP5の“暗黒面の洞窟”も現在ではヴァージェンスとして再定義されています。また、ジェダイ聖堂もまたヴァージェンスの上に築かれていたとされ、『ローグ・ワン』で強い印象を残し、『シスの暗黒卿』でも重要な役割を果たしたムスタファーのベイダーの城もまた、ヴァージェンスの上に築かれたとされています。そんなヴァージェンスは物語上ますます重要な位置を占めているのです。

ジェダイとシスは、この混沌としか言いようのない現象を理解しようと、その性質に応じて「ライトサイドのヴァージェンス」「ダークサイドのヴァージェンス」「ニュートラル・ヴァージェンス」などと名づけて分類していますが、どこか“人間的な理解の枠”で無理やり整理している感が拭えません。

余談ながら、ヴァージェンスの存在はレジェンズ小説『シャッターポイント』で圧倒的な存在感を誇った惑星ハルウン・コルのジャングルを彷彿させます。善と悪、光と闇といった人間の線引きなど鼻で嗤うかのように一切のものを呑み込み無に帰す壮大なジャングルは、現実世界に生きる私たちにとってより身近に感じられる「ヴァージェンス」の比喩なのかもしれません。

SWにおけるヴァージェンスの初出。クワイ=ガンはアナキンを「ヴァージェンス」と評した。
フォースが濃密に絡み合うヴァージェンスでは、フォース・センシティブは種々の不可思議な体験を強いられる。
ヴァージェンスではないが、『破砕点』に登場したジャングルは私たちにとっても身近に感じることのできる「輻輳」かもしれない。

閑話休題、本作で中心となるのはディソに存在するヴァージェンスです。ジェダイともシスとも異なる形でフォースを感知し利用する現地のシャーマンたちがかつて発見し、畏れ、神殿を建て、さらに封じたほどの力を秘めた場所として登場しますが、その封印はクローン戦争の風雲とともに破られることとなります。フォースの乱れを察知したダース・シディアスが、弟子ダース・ティラナスにその調査と原因となる遺物の回収を命じたからです。

ドロイド軍団を率いてディソに降り立ったティラナスはシャーマンを容易くねじ伏せて神殿を見つけ出し、掘削ドロイドを駆使して巨大輸送船に収容します。しかしいまにも師のもとへ送り出そうとする神殿からあふれ出す大いなる力の奔流を前に、彼の中でシスの生き様が頭をもたげたのでした。

この絶大な力が師ではなく自分のものであれば…。

その後ティラナスは師に輸送船がハイパースペースでトラブルに見舞われ、行方不明となったという報告を行います。もちろんティラナスはそのようなミスを犯す粗忽者でもなければ、シディアスもそのような言葉を真に受けるほどお人よしではありません。ティラナスはとある技術を用いて神殿を収容した船をハイパースペースのどこかに隠して師を出し抜こうとし、シディアスもまたそれを知りつつこの場は不問に付したのでした。そして時は流れて帝国時代。非業の死を遂げたティラナスに代わってシディアスの弟子となったベイダーが、奇妙な縁から再びこの失われた遺物の捜索に赴くこととなったのでした。しかしその旅路は神殿とともに超空間の彼方に封印されていた脅威を呼びさますこととなって行ったのでした。

このように、本作は良い意味で読み手の期待を裏切る物語となっており、主題となるベイダーの内面だけではなく、起伏に富んだ冒険譚が懐かしい意外なキャラクターの登場や手に汗握るクライマックスに彩られ、エンタメとしても充分に高い完成度を誇っているのです。

ダース・ティラナス(ドゥークー伯爵)もまた、シスの常で師への忠誠は完全ではなかった。

読後感:痛みに拠って立つ男(ネタバレ要素含む)

ここからは本書を読了された方々を対象に、私が本書読了後に胸に抱いた事々をつらつらと綴るものです。内容としては普遍的なものなので未読の方にも通じる話であると思うのですが、いわゆるネタバレに対する配慮は行っておりませんのでご注意ください。

さて、シスという存在のあり方は、つくづく不器用だと思います。彼らは自分の負った「傷」を決して治療しようとはせず、「傷を与えられた」という事実を延々と抱え続け、それを与えた相手への怒りや憎しみを糧に力を振るいます。そしてその力によって他者に傷を与え、支配する方向へと向かう。非常に「自傷的」な生き方であり、「虐待の連鎖」をそのまま体現しているような人々に思えます。まさに彼らは「痛みに拠って立つ者たち」と言えるでしょう。とはいえ、そんな彼らの姿が“物語の登場人物として”であっても魅力を持つのは、そこに私たち自身の影を見出すからではないでしょうか。

私たちも時に自らの傷に屈辱と誇りを抱き、その出来事をもって自分を定義し、怒りや憎しみをエネルギーに変えることがあります。そしてときにその力で誰かを傷つけることもあります。その一方で、その痛みを力に変えて人を傷つけるのではなく、その痛みをもって自分を保つ支えとすることもできるのではないでしょうか。私はこうした生き方を「暗黒面の善用」と呼んでいます。それは常に加害性と紙一重で、もっとも“バランス”を要する生き方と言えはしないでしょうか。まるでメイス・ウィンドゥの創り出したヴァーパッドのように。

突飛な連想ながら、私は本作を読んでいて夏目漱石の随筆集『硝子戸の中』を思い起こしました。そのなかで漱石は、とある追い詰められた女性の言葉を綴っています。

「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜け殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で恐ろしくってたまらないのです」

『夏目漱石全集10』ちくま文庫刊 P204

彼女は恋愛に起因する深い心の傷を抱えて漱石のもとを訪れました。その詳細は明かされないものの相当に凄絶な経験だったようで、その内容を前に漱石も言葉を失ってしまいます。

この言葉は、漱石のもとを訪れたある女性の言葉として登場します。彼女は過去に恋愛に起因する深い心の傷を負っており、その痛みに耐えかねて漱石に相談に及んだのでした。その詳細は明かされませんが、どうやら相当に凄絶な内容であったらしく、漱石はかける言葉を失ってしまいます。しかし、数々の逡巡の果てに辛うじて彼女に生を促す言葉をかけたのでした。

 私は彼女に向って、すべてを癒す「時」の流れに従って下れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥げて行くだろうと嘆いた。

 公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈しい生の歓喜を夢のように暈してしまうと同時に、今の歓喜に伴う生々しい苦痛も取り除ける手段を怠らないのである。

『夏目漱石全集10』ちくま文庫刊 P207

そしてこの随筆は、彼女の存在によって触発された漱石自身の死生観をめぐる考察へと及んで行きます。さて、飛躍を承知で言えば、この一片の物語における女性の生き方は本作におけるベイダーの生き方に似てはいないでしょうか。『硝子戸の中』は小説ではなく随筆であり、モデルとなった出来事や人物も存在するため当然ながら、女性側の胸中は一切描かれることなく、専ら漱石の目から見た女性の言動と、それによって惹起された彼自身の心中しか描写されません。

そしてこの女性が「痛みに拠って立っている」という点でも、どこかベイダーの生き方を彷彿させるとは思えないでしょうか。彼女は死を想うほど自らが受けた心の傷の痛みに悶えているにもかかわらず、いやだからこそ、それを自らの支えともしているように私には思えます。”この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜け殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で恐ろしくってたまらない”のです。

彼女のこころは「痛み」に充たされることによって保たれていると言えないでしょうか。痛みに悶えながらも、その痛みを手放すことを恐れている。“痛みが消えたら、自分の存在が空っぽになるのではないか”という恐怖。これはまさにベイダーの姿そのものです。もし痛みと怒りと憎しみを除いてしまったら、彼には何が残るでしょう。虚弱な肉体と、目的を失った魂だけではないでしょうか。かつて「光の騎士」だったアナキンはそのすべてを喪い、空虚を怒りと憎しみで埋める存在ダース・ベイダーとなりました。その心に光を宿せないなら闇を宿して生きるしかないのです。夢や希望がなくとも、怒りと絶望が彼をぎりぎりこの世界につなぎ止めているのです。

「そこまでして生きる意味などあるのか」というのは誰もが思うところでしょうが、人は「生きる理由をなくした」、または「死ぬべき理由を見出した」というだけでは死ぬことができないのではないでしょうか。…というのは、私が同じく漱石の作品『こころ』から見出した人間心理です。『こころ』の主人公「先生」もまた、アナキンと同じく愛する者への執着から多くのものを犠牲にし、ベイダーと同じく生きる理由を失くしたにもかかわらず二十年の月日を生き延び、そのかん妻を、表面的には至極穏やかに遇しつつも、決して自らの心中を明かさず、疎外感を抱かせ続けるという方法で傷つけ悩ませ続けました。「先生」もベイダーも、生きる理由をなくして虚しい生を送り、その間、意図的かそうでないかの違いはあるものの、結果的には他者を傷つけ続けたという点では似た者同士と言えるのではないでしょうか。

閑話休題。光をまとう正義の騎士としてまったく無力な存在へと堕ちてしまったアナキン・スカイウォーカーは、闇を纏う邪悪の主(Master of Evil)ダース・ベイダーとなることで生き長らえることに成功したのではないでしょうか。しかしこの時点でのベイダーが「邪悪の主」を名乗るのはあまりにも烏滸がましいという他ありません。彼には闇を突き詰めその力を引き出すための怒りと憎しみが、圧倒的に欠けていたからです。もちろん彼はその粗悪な生命維持スーツによって常に痛みと不快に苛まれ続けながら、それを暗黒面とのより深い合一を促す触媒として用いています。しかし「邪悪の主」となるべき男が拠って立つのが、意図的に粗悪に設計された生命維持装置によって、敢えて言えば「演出された」肉体的な痛みと不快、それに付随する怒りと憎しみだけのはずはないでしょう。そこにはより大きく、意図的に演出する必要もない「精神的痛み」が不可欠ではないでしょうか。

そこで大きな役割を果たすのが本作終盤に登場する「ディソの神殿」つまり暗黒面のヴァージェンスのなかでベイダーが経験する「パドメ殺し」です。ヴァージェンスにおける愛する者の死の追体験というのは、『シスの暗黒卿』最終ストーリーアーク「ベイダーの城」でも繰り返されるのです。本作で繰り広げられる「ヴァージェンスにおけるパドメの死の追体験」は、本作の後を物語る『シスの暗黒卿』最終ストーリーアーク『ベイダーの城』でも繰り広げられる悲劇です。そしてそれから約18年後の1 BBY、ゲーム作品『ベイダー・イモータル』においてもパドメ蘇生を目的とする儀式を行おうと躍起になります。

ベイダーはその「誕生」の瞬間から後半生の終わりに至るまで、アナキン・スカイウォーカーを抜け殻たらしめた「パドメの死」を一切受け入れていないのです。ということは、本作における「パドメ殺し」、そして『シスの暗黒卿』における「パドメの死の追体験」といった彼にとってもっとも大きく深い傷を再びえぐるかのような精神的旅路は、心身ともに無力な抜け殻となったアナキン・スカイウォーカーに代わってその心身を支配したダース・ベイダーとしての人格を充実させるための「ブリーディング」ではなかったでしょうか。

『シスの暗黒卿』にて、ムスタファーのヴァージェンスでベイダーは「パドメの死」を追体験する。
壮絶な精神的旅路の果てに、ベイダーは何を思うのか。

カイバークリスタルのブリーディングは怒りや憎しみといった暗黒面の力を注ぎ込むことでカイバーをブリーディング(Bleeding)つまり出血させ、持ち主のシスに従属させる儀式でした。ベイダーはムスタファーのヴァージェンスでカイバーへのブリーディングを行った後、ディソの神殿で、そして再びムスタファーのヴァージェンスで自分自身にもブリーディング、つまりその心に怒りや憎しみ、そして悲しみを注ぎ込み、”出血”させたのではないでしょうか。そしてそれによって、仮初めに蘇ったアナキン・スカイウォーカーの「抜け殻」に宿ったダース・ベイダーは、その「抜け殻」に残った能力を生かしつつ、やがて「邪悪の主」を名乗るに相応しい「悪の偉丈夫」となっていったのではないでしょうか。

本作のタイトル『Master of Evil』とは、本作のマクガフィンとなるディソの神殿に秘められた暗黒面のヴァージェンスの底知れぬ不気味さを指し示すと同時に、その薫陶を受けることによって、後にかつての師から「Master of Evil」と呼ばれることになる男の歩みをも意味しているのではないでしょうか。

参考資料

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『Master of Evil』

作者アダム・クリストファーの代表作『Shadow of Sith』

同時期のベイダーの歩みを描くコミックシリーズ『シスの暗黒卿』

同時期のベイダーの歩みを本作とは対照的な視点で描くレジェンズ小説『暗黒卿ダース・ヴェイダー』

本作と直接の関係はないが、ヴァージェンスを身近に感じさせる”ジャングル”が登場するレジェンズ小説『破砕点』

本記事の考察に用いた夏目漱石の随筆集『硝子戸の中』

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