『ダース・プレイガス(上・下)』〈レジェンズ小説最後の光〉【レジェンズ小説】

レジェンズ小説
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Did you ever hear the tragedy of Darth Plagueis the Wise?

君は賢人ダース・プレイガスの悲劇を知っているかね?

ダース・プレイガス。それはEP3でパルパティーンによって初めて明かされたシスの名であり、彼によればそのシス卿はミディ=クロリアンを操ることで生命をも操り、人を死から救うことさえできたにも関わらず自らを救うことはできず、弟子の手によって殺害されたといいます。

その男の名が冠された本作で展開するのは、シスの念願であったジェダイ滅亡を実現して銀河を手中にしたダース・シディアスの若き日の姿であり、そんな彼を暗黒面へと導き、銀河に動乱の種を植えつけた大いなるシス卿の物語なのです。

そして本作は2012年のディズニーによるルーカスフィルム買収とそれに続くスピンオフ諸作品のレジェンズ化、つまり完全非公式化が行われた直前に刊行されたものであり、レジェンズ最晩年作品と言える作品であり、過去作品の設定やあらすじがふんだんに活用された、まさに「レジェンズ最後の光」とも言える作品となっています。

深く静かに潜航せよ

ダース・シディアス(Darth Sidious)という名はinsidiousという単語に由来すると言われていますが、その意味するところは「陰湿」「陰険」、そして「(病気などが)知らぬ間に進行する」といったものであり、劇中の彼の役割を言い表して妙と言えます。しかしそのinsidiousは彼によってではなくその師プレイガス、否、さらにその師のまたその師の・・・という具合に、かつて正攻法でジェダイに敗れたシスの復讐を目指す陰謀の集大成であったことが明らかにされます。

シディアスにパルパティーンという表の顔があったのと同じく、表題となるダース・プレイガスにもヒーゴ・ダマスクという表の顔がありました。彼は銀河屈指の経済力を持つ巨大企業ダマスク・ホールディングスのトップという立場をフル活用して各界にコネと人脈を張り巡らし、銀河の享楽と腐敗を歴史の背後から演出しています。

象徴的なのは作中に仮寓ソウジャンという名で登場するプレイガスが所有する秘密クラブの存在。極めて少数の選ばれし者たちしか足を踏み入れることの許されないリゾート地では日頃文明人として慎ましく振る舞っている人々が血なまぐさい狩猟にその本能を剥き出しにし、その後の宴の席では銀河の行く末を左右する重要な決定が行われているのです。

それはまさにシスの楽園。そこでは人々はひたすらに利益と私欲を満たすことのみを考え、そんな彼らの前に銀河共和国は屠られ貪られるべき巨大な獲物に過ぎませんでした。後にパルパティーンによる帝政樹立を何より後押しすることになる「人々の不安」という炎を何よりも、何処よりも守り抜き煽り立てていたのはこのソウジャンを措いて他にはないでしょう。クローン戦争激化によってその炎を最大限にまで煽り立てることに成功したシディアスですが、その「種火」は先達たちによって脈々と引き継がれてきたのです。

シスの道

そんなプレイガスの新たなる獲物として飛び込んできたのは、豊かな資源を持ちながら「開国派」と「鎖国派」がしのぎを削り合う惑星ナブーでした。新たな経済植民地として同地に目を付けたプレイガスは「鎖国派」に属しながらも家長である父や家族に反発し、彼らへの並々ならぬ憎悪と権力欲、そしてただならぬ力を身中に滾らせる青年と出会います。

青年はやがてプレイガスの巧みな説得によって協力関係を結び、しかしそれによって反目の度を強めた父を、そしてついには母や弟妹をも手にかけてしまいます。それは青年の恐ろしい資質の発露であり、彼が選び取った「自らの解放」に他なりませんでした。あらゆる束縛から自由になった青年は改めてプレイガスに忠誠を誓い、青年パルパティーンはダース・シディアスとしてシスの道を歩むことを決心。それは「偉大な野心家」と「運命の男」との出会いとなりました。

本作でもっとも目を惹くのは暗黒面を極めようとする者たちの心の在り様の活写でしょう。勧善懲悪を基調とする映画本編では堕落した者たちという印象で一刀両断される彼らですが、オビ=ワン曰くすべては「見方の問題」に過ぎません。

ジェダイの奉じるライトサイドが仁慈と協調を旨とするならば、シスの奉じるダークサイドは貪欲と克己を旨としているように思えます。ヨーダ曰く「暗黒面に至る道は容易い」が、それを極めるのは至難であり、本書で描かれるシスたちは堕落や安逸とは無縁の、想像を絶する自律のもとに「暗黒の力」を身につけてゆきます。

「不安と憎しみに駆り立てられれば、ジェダイですらオーダーの教えが拘束している先の境地へと達し、さらに深い力を見いだすことができる。だが、平和と正義への忠誠を越えた者、怒りや欲望に駆られて殺したジェダイですら、ひとりとしてダークサイドのフォースをわがものにすることはできない。ダークサイドに堕ちた、あるいはダークサイドがこんな行動を取らせたと自分を納得させようという試みは、あわれな正当化に過ぎないのだ。だからこそ、シスは最初から闇を抱き、力の獲得に集中する。われわれは言い訳を口にしない。シスの行動は自己から始まり、力へと流れ出す。われわれは餌食となる小動物のようにフォースの解きがたい気まぐれに降伏するのではなく、ハンターのようにフォースにつきまとう」

本作で展開するシスたちの言動から滲み出すのは「自力」に生きる者の矜持ではないでしょうか。ジェダイが他者との協調、フォースとの調和といった「他力」の世界に生きているのとは対照的に、シスは飽くまでも他者を、そしてフォースそのものすらをも、支配することを最上の目的としているのです。生命に強い執着を見せるプレイガスはフォースを媒介するミディ=クロリアンを排して直接フォースと繋がることを企図し、ミディ=クロリアンを誘導または制御して生命を己の支配下に置こうすら目論みます。

それは紛れもない傲慢に充ちた姿と言えるでしょう。しかしそれさえも自覚しながら己を鍛え上げ感覚を研ぎ澄まし、ジェダイが森羅万象の源として畏れるフォースに対してすら捕食者としての目を向けるシスの峻厳な生き方には言い得ない魅力があふれています。

そんなプレイガスの複雑、難解、過酷な教えを吸収しながら力を蓄える若きシディアスは、シスの悲願を果たすため政治の世界に駒を進めて行きます。癌細胞のように共和国政府の身中深く食い込んでゆく彼の目標は共和国最高議長の座。そして共和国政府とジェダイの内部崩壊、そして新秩序とシスの再興。

しかし「裏切り」はもはやシスの遺伝子に刻まれた道とも言えます。師と弟子は協調して事にあたるべしとするプレイガスに対し、シディアスの忠誠はいつまでも揺るがず、いつまでも師に仕え続けるのでしょうか・・・?

フォースのバランス

ナブー選出元老院議員となったシディアスは最高議長の座を目指して権力の海を渡り、財界の巨頭という隠れ蓑に身を包むプレイガスは共和国の秩序紊乱への布石を打ち続けます。最高議長への欺瞞、合法・非合法のカルテル組織との結びつき、クローン軍隊創設の打診、現状に激しい不満を抱くジェダイ・マスター、ドゥークーサイフォ=ディアスとの出会い、すべてが後の災いを引き起こす導火線として縒り合されて行きます。

混沌渦巻く銀河政治の荒波も、敵対する元老院議員の陰謀も、二人のシス卿の機知と荒れ狂う暗黒面の力を前にしては残虐に打ち据えられるのみ。まさに

Everything is going as planned.

すべて余の思惑通りに進んでおる。

プレイガスのもう一つの執念もまた然り。ミディ=クロリアンの制御とフォースへの介入による生命の永続、そして創成という途方もない野望さえ、長きに渡って重ねられた研究と、自然に背くことを許さぬ「フォースとの戦い」を通じて成し遂げられようとしていました。いまやフォースは光から闇へと傾き、自然界では有り得ず、また有り得てもならないことが引き起こされます。プレイガスはあらゆるものを手に入れようとしていました・・・。

欲得に塗れ屋台骨のぐらついた共和国の混迷は加速度をつけて深まって行きます。最高議長は汚職の疑惑に塗れ、強欲な通商カルテルは自らの権益を主張して議論を紛糾させ、辺境各地で頻発する暴動や紛争の激化は、非武装主義を掲げる共和国政府に常備軍創設の議論を芽生えさせ、増大する防衛費を賄うための課税案という爆弾を生み出すに至ります。

銀河は暗黒卿たちの望むままに熟し、腐り、落ちるのを待つばかりとなったかに見えます。しかしプレイガスの心には一つの懸念が生まれます。それは永遠の命を獲得するために彼が挑み、歪め、均衡(バランス)を崩したフォースからの「報い」の可能性。そしてそれは思わぬ形で現れることとなったのでした。

 われわれは破滅するのか? ダークサイドよ、あなたはわれわれを破滅させるのですか?

すべてを手に入れた男に降りかかる「フォースの復讐」とはなんなのか。

物語後半でなにより目を惹くのは、映画作品中では一切触れられることのなかったアナキン・スカイウォーカーの出自を巡る記述でしょう。本作半ばで大きなヒントを提示されたと思われた彼の出生の秘密は後半部で見事に裏切られ、「フォースにバランスをもたらす者」という言葉の意味が遂に明らかになります。やはりアナキン・スカイウォーカーは暗黒面に堕ちようと堕ちまいと「バランスをもたらす者」であり「環を閉じる者」であったのだということを強く印象付けられるのでした。

「ノワール」の魅力

さて、そもそも1977年のSW大ヒットには、「70年代アメリカ」という当時の世相が反映していたという論があります。ベトナム戦争が深い爪痕を遺し、ウォーターゲート事件その他に象徴される政治への不信は拭い難く、映画業界においても古風なヒーローではなく皮肉なアンチヒーローが持て囃された時代にあって、革新的な映像技術を用いながらも古今の神話やお伽噺的要素を詰め込んだシンプルで力強い物語が、諸々の汚濁にうんざりした当時の人々が求めていたニーズと合致したのではないかというわけです。

昨今の時勢も似たり寄ったりの汚濁が蔓延していることに変わりはないですが、一つ70年代と大きく異なるのは、東西冷戦の終わりとともにイデオロギーや「敵か味方か」という偏狭な正義観やナショナリズムに対する虚しさが深く印象付けられている点ではないでしょうか。

そういった言葉の響きにうんざりさせられることの多い現代人には、もはや説得力に乏しい善悪二元論・勧善懲悪の物語に代わってそれらをさらに深く掘り下げ、「正義」を掲げる人々の鈍感や傲慢、「悪」を抱く人々の気概や機微を描いた本書のような、「ノワール」な物語のほうが説得力をもって迫ってくるのかもしれなません。

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