『フォースの覚醒』雑感:伝説を仰ぎ見る物語

続三部作
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【あらためて当ブログのスタンスとSW観】

今回は長らく手をつけられずにいたシークエル三部作に少し足を踏み入れ、『フォースの覚醒』について徒然なるままに雑感を記して行きます。しかしその前に、シークエル周辺は今なお「スター・ウォーズファンダムの火薬庫」であるという事情があるため、本題に入る前に無用な誤解や行き違いを避けるためにも、まず私自身のスタンスを明示しておきたいと思います。

本ブログ自己紹介にも記述しているように、私は作品をめぐる無用なノイズはできる限り排し、虚心坦懐に物語そのものに接したいと考えています。この物語では何が起き、誰がそれを引き起こし、巻き込まれ、どう生きたのか。そして私たち観客がそこから何を読み取り、学び、楽しめるのか。そうした点に焦点を当てて語っていきたいのです。もちろんすべてのシーンを逐一追うことは不可能ですが、要所要所の印象的な場面を摘まみつつ、私自身が率先してあれこれ語りながら一緒に眺め、考え、そしてなにより楽しんでいければと思っているのです。

私にとってスター・ウォーズという物語は、「ジョージ・ルーカスのイマジネーションという根に支えられ、映画本編という太い幹がそびえ、スピンオフ群という枝が広がり、魅力的なエピソードという葉が繁り、キャラクターたちという果実がたわわに実る大樹」のような存在です。つまり、スター・ウォーズは映画という枠に留まらず、小説・コミック・アニメ・ドラマ・ゲームといったメディアをまたぎ、相互の往還によってその面白さを深めてきた巨大な叙事詩だと考えているのです。したがって私の見立ては多くの場合、スピンオフ作品との関連を踏まえたものとなります。よって 「スター・ウォーズは映画だけで語るべき」「スピンオフありきの作品解釈は邪道」と考える人々とは、価値基準が根本的に異なるかもしれない。その点を念頭に置いていただきたく思います。

【作品概要:伝説を仰いで】

本作『フォースの覚醒』を一言で評するなら、「伝説を仰ぎ見る物語」と言えるでしょう。ここには、物語を駆け抜けるキャラクターたち、それを見つめる私たち観客、そして作品を作り上げた制作陣までもが「スター・ウォーズという伝説」に憧れ、そして絡め取られている構造があるのです。

物語の舞台はエピソード4『新たなる希望』から約34年後、エピソード6『ジェダイの帰還』から約30年後の銀河。帝国は滅び、反乱軍改め新共和国が統治する時代。人々にとって先の戦いは「銀河内戦」として記憶され、ルーク・スカイウォーカーは神話的存在へと昇華しています。この物語では、かつての英雄たちの新たな戦いと、それに憧れる若い世代の姿が交差します。ルークを「神話上の存在」と思い込んでいたレイ、ハン・ソロを「歴史上の偉人」と評するフィン、そしてかつての反乱軍の理想を再び掲げるポー。彼らは皆「伝説への憧れ」をその胸に宿しています。

それは敵側も同じです。暗黒面の徒カイロ・レンはダース・ベイダーという”邪悪の権化”の遺志を継ごうとし、ハックス将軍も単なる邪悪な人物ではなく、その奥底には「帝国の秩序を再興する」という大義を奉じて軍を率いています。

つまり本作に登場する新旧世代は、「伝説を担った者たち」と「その伝説に憧れる者たち」とに分かれており、さらにロア・サン=テッカやマズ・カナタ、スノークのような「伝説を知る者たち」がその間を取り持つ構図となっていると言えるのです。

そして当時、私たち多くの観客もまたその「伝説」に魅了されました。私たちはジャクーの砂漠にかつてのタトゥイーンを見出し、埋もれたスター・デストロイヤーの残骸に感慨を覚え、ファルコンとTIEファイターのチェイスに快哉を叫び、ハンとレイアの再会に胸を熱くし、ルークの登場に次作への期待を膨らませたのではなかったでしょうか。たとえ「焼き直し」と批判する声があったとしても、あの当時私たちは確かに「伝説の再臨」のなかに熱狂していたのではないでしょうか。

賛否両論を呼びつつも、「スター・ウォーズ」再来を感じさせるビジュアルに観客たちは沸いた

しかしこの「伝説」に最も幻惑されたのは、実は制作陣そのものだったのではないかと私には思えます。

本作はしばしばルーカス自身も漏らしたように、「レトロ」や「ファン向けの安全牌」と評されますが、J.J.エイブラムス監督はまさしく“教師を仰ぐ生徒”のように、スター・ウォーズという信仰の形式に忠実であろうとしたように窺えます。物語としての革新性は乏しいかもしれないが、ファンダムの「信心」に見事に呼応した“信心深い”映画であるとも言えるのです。ただ、その「信仰の対象」であるジョージ・ルーカスが排除されたという構造が、やがてシークエル全体を揺るがす火種となって行きます。


ディズニーが買収後にルーカスの構想を退けたのは有名な話です。その詳細は憶測の範囲内とはいえ、プリクエルでファンからのバッシングという「負の実績」を持つミディ=クロリアンやフォースの真髄を描くはずであったというルーカス案を「ファンが求めるスター・ウォーズ」とは異なる方向性と見なした判断は、商業的には理解できるものでしょう。だが皮肉にも、その結果として生まれたのは「創始者を追放した信徒たちによる信仰映画」のような作品でした。

しかし、後にルーカス自身が「フォースの覚醒はレトロでファン好み」と皮肉を述べ、「自分の子を奴隷商人に売ったようだ」と発言したことで、ディズニーの試みは裏目に出てしまいます。観客は映画に満足しながらも、創始者の嘆きを前に複雑な感情を抱かざるを得なかったのではないでしょうか。もちろんファンダムの決定的な分断を招いたのはエピソード8『最後のジェダイ』をめぐる大論争ですが、この件は、その地殻変動へと発展する「前震」として機能したのではないでしょうか。

私自身は、ルーカスを排して新たな創作体制を築こうとした判断自体は理解できると思っています。しかし、代わりとなる明確なビジョンやカリスマ的な舵取り役を用意できなかったことが最大の失策だったのではないか、「非凡なる一将」も「凡なる二将」も用意し兼ねるまま制作を進めたことで「信仰」の権威を失い、それを凌ぐ実績も残せず、結局ファンダムから「不信心者」として糾弾されることになったのです。

こうした構造を踏まえると、『フォースの覚醒』とは、物語内外のあらゆるレベルで「伝説を仰ぎ見る者たちの物語」であったと言えます。キャラクターたち、観客、そして制作陣までもが、「スター・ウォーズという神話」に囚われ、憧れ、その光と影の中で翻弄されていたと言うことができるのではないでしょうか。

世界に冠たるディズニーもまた、スター・ウォーズという伝説を前にはたじろいだのか

【物語背景:帝国の亡霊と円環の歴史】

『フォースの覚醒』の物語構造は、元祖『新たなる希望』を深くなぞる、いわば「伝説の再演」と言えるものでしょう。悪の組織ファースト・オーダーと、その脅威に立ち向かうレジスタンスとの戦い――。その渦中で若者たちは運命に出会い、迷い、選び、そして成長して行きます。まさに王道的な冒険譚でありながら、ノベライズ版の冒頭に「ホイルス銀河史」の一節が引用されている点にも、『新たなる希望』を意識した構成が見て取れます。そして、おなじみのオープニングクロールは、今回も「神話性」を象徴する重要な要素となっています。まずはそこから垣間見える銀河の現状、そして「なぜ帝国のような勢力が再び現れたのか?」という疑問を、少し整理してみたいと思います。

【現代の闇としてのファースト・オーダー】

オープニング・クロールはこのように始まります。

ルーク・スカイウォーカーが消えた。
彼の不在の間に、邪悪なファースト・オーダーが帝国の灰の中から台頭し、
最後のジェダイたるルークをほろぼすべく執拗に追い続けた。

「帝国は滅んだはずなのに、なぜまた同じ構図が繰り返されるのか?」多くの観客が最初に抱くのはこの疑問でしょう。しかし、現実の歴史を思えば、ある独裁者が倒れたからといってその体制が一夜にして消えるわけではありません。多くの根回しや陰謀の末に確立し、一度は銀河全域をその支配下に置いた巨大国家であればなおのこと、その「首」を狩られただけで瓦解するはずはないのではないでしょうか。実際、『レジェンズ』においても皇帝の死後、帝国残党は「インペリアル・レムナント」として長く新共和国の脅威であり続けました。また物語的にも、ファースト・オーダーという「過去の栄光を復活させようとする集団」は、単なる悪の焼き直しには収まらない物語的意義を持っているのではないでしょうか。彼らは「失われた偉大さ」を夢見るカルト的集団であり、その姿は現代社会を映す鏡のようでもあるのです。

彼らのモチーフである「アルゼンチンに逃れたナチス残党」のように、組織としてであろうと個々人の心に潜むものであろうと、抑圧されたファシズムは完全には消滅せず、むしろ潜伏して機会を待ち続けます。「銀河を再び偉大に」――そのスローガンがどこか耳に覚えがあるのは、偶然ではないでしょう。アメリカのMAGA(Make Again Grate America )を筆頭に、押し寄せる国家主義の足音に耳を傍立たせざるを得ない国際・国内社会を生きる私たちにとって、彼らの存在はひと際不気味に映ります。ドラマ『アンドー』が現代政治と重なる脚本で高い評価を得たように、本作におけるファースト・オーダーもまた、「神話」と「現実」が交錯する重要なモチーフとなっているのです。

スター・ウォーズの物語は常に「繰り返しの構造」に基づいています。光が闇を打ち破っても、やがてまた闇が訪れる。だがその闇の中にも、再び光が芽生える。本作の印象的なキャラクター マズ・カナタの言葉は、その思想を見事に要約しています。

「唯一の戦いだ。ダークサイドとの戦い。遠い昔から、悪はいくつもの形をとってきた。
シス。帝国。今はファースト・オーダーだ。奴らの影が銀河に広がりつつある。
奴らに立ち向かい、戦わねばならないんだよ。われわれ全員でね」

この言葉が示すのは、「悪の再来」は物語の失敗ではなく、神話の必然であるということです。帝国が再び形を変えて現れることこそ、スター・ウォーズという「永遠の神話」を支える構造そのものと言えるのです。

「悪の二番煎じ」ファースト・オーダーは二番煎じであるからこその恐ろしさを感じさせる

【新共和国の理想と崩壊 】

クロールの後半はこう続きます。

共和国の支援のもと、勇敢なレジスタンスを率いるレイア・オーガナ将軍は、
兄ルークを全力で捜し、その助けを借りて銀河に平和と正義をよみがえらせようとしていた。

ここで浮かぶ疑問は、「共和国があるのに、なぜレジスタンスが存在するのか?」という点でしょう。正統政府があるなら、その軍が動けば済む話ではないのか、というわけです。しかし、『アフターマス』や『ブラッドライン』といったスピンオフ作品を読むと、その事情が見えてきます。エンドアの戦いを経て成立した新共和国は、「もう戦争はごめんだ」「独裁権力など見たくもない」という空気に包まれていました。銀河協定により帝国残党は武装を禁じられ、新共和国自身も軍縮を進め、その首都すら輪番制をとるという極端な民主主義を導入して行ったのです。その理想には共感できるものの、そのような姿勢がやがて統治不能に近い姿となって行ったのも当然でしょう。結果として新共和国は、「ポピュリスト」と「セントリスト」という二大派閥に分裂。しかもその内部では、旧帝国領出身の議員たち――中には帝国復活を密かに望む者も――が勢力を拡大していったのです。

ファースト・オーダーはそのような混迷に充ちた新共和国を尻目に、未知領域で帝国信奉者たちが築いた軍事国家として登場します。。彼らは「帝国時代の残存資源」や「軍需企業との癒着」「未知領域における収奪」「犯罪シンジゲートとの結託」などをもとに急速に力をつけていったとされています。ブラステック社やマー=ソン社は「ソン=ブラス社」という子会社をつくり、サイナー社はサイナー=ジェイマス社という別会社を作り…といったふうに名目上の別企業を通じて兵器を供給し、法の目を巧みにかいくぐって行ったのです。一方、新共和国の議会では、帝国シンパの議員たちが密かに資金援助を行い、その構造は現実社会における「宗教団体と政治の癒着」を想起させるほど。もはやファースト・オーダーの台頭は、フィクションというよりも「歴史の必然」に近いと言えるのではないでしょうか。

新共和国の多くの議員は、ファースト・オーダーの危険を信じませんでした。彼らは「また戦争を起こすつもりか」とレイアたちを非難し、報告を退けて行きます。その構図は、ドラマ『アソーカ』に登場するヘラ・シンドゥーラへの冷遇から推して知るべしでしょう。過去の英雄は「時代遅れ」として切り捨てられ、警鐘は「考えすぎ」と片づけられて行ったのです。それでもレイアは諦めませんでした。『ブラッドライン』で描かれた失脚後も密かに「レジスタンス」を結成し、限られた支持者の支援をもとに活動を続けて行ったのでした。そんな彼女の希望はただひとつ――兄、ルーク・スカイウォーカーの帰還だったのです。そんな希望を託されたルークは本作における「マクガフィン」、すなわち物語を駆動する“探し求められる存在”として登場します。ノベライズ版の冒頭が、レイアのルークへの想いから始まるのも象徴的です。彼女にとってルークは「銀河を救う希望」であり、それはまた観客にとっても同じものだったと言えるでしょう。

”偉大なジェダイ”ルーク・スカイウォーカーの伝説はメタ的にも設定的にも人々の目をくらませる

レイアはレジスタンス一勇敢なパイロットに秘密の任務を与え、惑星ジャクーに送った。
そこでレイアの旧友が、ルークの居所の手がかりを見つけたというのだ。

こうして物語は、ルークの影を追う旅として幕を開けます。その「勇敢なパイロット」こそが本作の主人公の一角ポー・ダメロンであり、彼の背景や使命はコミック『ブラック・スコードロン』などで補完されています。反乱軍の血を引き、妥協を知らぬ若者。まさに次世代の「希望」を象徴する存在の一人です。『フォースの覚醒』は、「伝説の再演」であることを隠そうとしません。しかし、それは安易な焼き直しではなく、神話としての循環構造の再確認といえるのではないでしょうか。帝国は滅んでも、その影は消えない。ファースト・オーダーは過去の残響であり、同時に私たちの現実社会における「鏡像」でもある。かつての光が再び闇に呑まれようとする今、スター・ウォーズという物語は、本作を通してあらためて普遍的価値を持つ物語として帰ってきたのです。

【ジャクー:名もなき者の目覚め】

物語は銀河の命運を握るとも言える「ルーク・スカイウォーカーの地図」をめぐって幕を開けるます。そのデータを手に入れたレジスタンスのエースパイロット、ポー・ダメロン。しかし同じ情報を追うファースト・オーダーもまた、砂漠の惑星ジャクーへの侵攻を開始します。地図を守る老人ロアが暮らしていたトゥアナル村は、テクノロジーを避けた素朴な共同体でしただった。そんな村がストームトルーパーの襲撃に耐えられるはずもなく、村は壊滅し、ロアは殺され、ポーも捕らわれの身となります。そして、彼から託された地図を胸に抱え、逃げ出した小さなドロイド――BB-8の冒険が始まるのです。この展開が『新たなる希望』におけるR2-D2とC-3POの逃走を意識した構成であることは、もはや言うまでもないでしょう。

しかし、このジャクーの惨劇にはもう一つ、別の“始まり”が隠されていました。それは、のちに“フィン”と名乗ることになる一人のストームトルーパーFN-2187の目覚めです『フォースの覚醒』が公開された当時、ストームトルーパーが主人公の一人になるという設定は、多くのファンに衝撃を与えました。これまでストームトルーパーたちは、どこまでも悪や盲従の象徴として描かれてきたからです。ファースト・オーダーの兵士たちは、各地から誘拐されてきた子供たちで構成されているとされています。彼らは幼い頃から洗脳教育を受け、ただ「命令に従う」ことだけを叩き込まれて育ちます。格闘術、銃火器の扱い、戦闘訓練――その人生のすべてが「戦うための存在」として設計されているのです。

その姿は、銀河共和国時代のクローン・トルーパーを思い出させ、彼らを率いたジェダイ騎士団のネガフィルムでもあるでしょう。しかし、あの時代のクローンたちが「遺伝子操作によって個性を削がれた存在」とされながらも、それぞれに豊かな人格を見せたように。そして、ジェダイたちが「愛や執着を禁じられていた」にもかかわらず、しばしばそれに心を揺るがせ迷わせたように、この“FN-2187”という青年もまた、冷たく整列した中で、ただ一人「自分の意志」を持ってしまった存在でした。彼は仲間が村人を虐殺するその場に立ち、ただ立ち尽くし、引き金を引けなかったのです。命令を拒んだその一瞬が、彼の“覚醒”の始まりでした。

本作のもう一人の主人公、レイの旅路は言うまでもなく「英雄の旅路(Hero’s Journey)」の系譜にあります。平凡な少女が運命に導かれ、冒険を経て、やがて“偉大なる者”へと成長していくのです。それはルーク・スカイウォーカーの再演であり、神話的な構造です。一方で、フィンの歩みは少し異なります。彼はプリクエルのアナキンや、『アコライト』のオーシャのように、「自分自身を信頼し、受け入れること」から成長を始めるのです。いわば、内面の葛藤を通して自己を肯定することで成長して行く「ヒロインの旅路(Heroine’s Journey)」に近い構造を持っているとは言えないでしょうか。彼が最初の一歩を踏み出した瞬間、それは「外界へ飛び出す冒険」であると同時に、「自らを見つめ直す勇気」から始まっているのです。

フィンの命令拒絶とポーとの脱出劇は、彼の物語における「第二の誕生」と言えるものでしょう。生まれて初めて自らの選択で行動し、初めて自分の意思で“友”を得た。そして、初めて“名前”をもらった。それは、与えられた番号ではなく、誰かに名付けられた「人間としての名」でした。この瞬間、ストームトルーパーという「非人間の象徴」は、初めてひとりの人間として歩き出したのです。彼にとっての“フォースの覚醒”とは、ジェダイが感じ操るフォースではなく、“自我”というあらゆる人間の力(フォース)の源となるものの目覚めだったとは言えないでしょうか。

もっとも、初めての実戦で洗脳が解けるという展開には、やや唐突さを感じるものでもあるでしょう。長年にわたり組織的な教育を受けてきたなら、一度の戦場体験で自由意志が芽生えるというのは少々現実味を欠くとは思えないでしょうか。もちろんスター・ウォーズの物語は常に「選択の力」を描いてきました。過去や出自に縛られず、「善を選ぶ」という一点にこそ価値があるという信念が、作品全体を貫いているのです。実際、『スカイウォーカーの夜明け』では、フィンと同じように虐殺を拒否した元トルーパーのジャナやその仲間たちが登場し、「強制された忠誠の虚しさ」を象徴する存在となっていました。また、スピンオフ小説『フォースの覚醒前夜』では、FN-2187がもともと仲間に対して同情や温情を見せる性格であり、上官のキャプテン・ファズマから叱責を受ける描写もあり、このことから考えれば、彼の“覚醒”は偶然ではなく、もともと内に宿っていた良心が臨界点を迎えただけとも言えるのかもしれません。

ファースト・オーダーの「強制された忠誠」の脆弱さを窺わせる描写は同小説中にも窺えます。それによれば、トルーパーたちは互いを型番に基づく”ニックネーム”で呼び合っているのです。FN-2187は「エイトセブン」と呼ばれ、他にも「ナインズ」や「スリップ」など、簡単な“あだ名”が存在していました。クローン・トルーパーたちが自らニックネームを名乗ったように、それは「与えられた番号ではなく、自分たちの言葉で互いを呼ぶ」行為、つまり自分たちが“人間である”という証のような行為と言えるでしょう。どんなに規律で縛られようとも、人間の尊厳までは奪えない。ファースト・オーダーが掲げた「鉄の忠誠」は、実はそんな小さな“人間らしさ”によって、いつでも崩れうる脆弱なものだったという解釈が可能な逸話ではないでしょうか。

とはいえ、個人的に少し惜しいと感じるのはフィンがファースト・オーダーを脱走し、かつての仲間たちを敵に回すことへの葛藤があまり描かれていない点です。幼少期から「家」として過ごした場所を離れ、元同胞に銃を向ける…。それは本来、もっと痛みを伴うはずの決断ではないでしょうか。ノベライズでもその心理的な描写は薄く、やや物語のテンポに押し流されてしまっている印象があるのです。ただ、それでもフィンというキャラクターは、新三部作の中で最も一貫した成長を見せた人物の一人と言えるでしょう。

いちはやくスター・ウォーズのテーマを体現するフィン

【ジャクー:揺りかごから攫われて】

“主人公フィン”の誕生を導いたジャクーでの虐殺のあと、物語に登場するのが、シークエル三部作の主人公筆頭と言うべきレイです。彼女もまた惑星ジャクーの住人ですが、その居場所は惨劇に見舞われたトゥアナル村から遠く離れた、ニーマ・アウトポストと呼ばれる小さな集落の周辺をねぐらとしています。彼女の職業はスカヴェンジャー、すなわち廃品漁りです。銀河内戦の終結地となったこの惑星には、戦闘で墜落した無数の艦艇が朽ち果てており、それはこの地に生きる“持たざる者たち”にとって、生活の糧そのものだったのです。彼らは船の残骸を分解し、部品を取り出しては売りに出し、それで得られるわずかな報酬で命をつないでいます。その姿は、砂漠をさまようジャワ族を思わせますが、レイの境遇は彼らよりもはるかに過酷と言えるものでした。

ジャワたちは仲間とともにドロイドやスクラップを回収し、それを売ることで共同体的な生活を送っていました。しかしレイには仲間も、頼れる者もいません。彼女の周囲には、食料を独占する廃品業者アンカー・プラットと、同業者という名の敵ばかりがいるのです。児童書『レイのサバイバル日記』では、その厳しい日常がこう記されています。

私は、ゴアゾンにある、たおれたAT-ATの中に住んでいる。

ウンカー(アンカーを本書ではこう記載)は墓場からの拾い物のだいしょうとして、我々ゴミあさり(スカヴェンジャー)たちに非常食をくばる。金はもらえない、物々交換もない、あるのは食べ物のみだ。

毎晩、壁に印をつけているんだ。この星で、また一日生きのびたことを記念するために。

この一節だけで彼女の生がどれほど過酷で、希望から遠いものであるかがわかるでしょう。レイは確かに、サバイバルの技術やテクノロジーに関する知識、護身の術など、多くのスキルを身につけた「強い女性」ではあります。しかしその“強さ”は、生存のためにやむを得ず身につけたものであり、未来へと進む力ではないのです。彼女は希望を持つことすら許されぬ絶対的な弱者として、社会の最底辺にとどまっていると言えるでしょう。働いても得られるのは貨幣ではなく食料であるということが彼女の悲惨さを象徴しています。そこには「食べることしかできない」日々があるのです。

しかし、「そんな環境から脱出して新たな人生を歩む」という選択肢は、彼女の心にはそもそも存在しません。なぜなら、彼女はここで“待っている”からです。かつて両親にこの星へ置き去りにされ、それでもいつか迎えに来ると信じているのです。果てしない砂の海の中で、誰も来ない明日をただ待つ…。その時間こそが、彼女の「生」そのものになっているのです。見る者も、頼る者も、分かち合う者もいない。彼女の人生は、フィンとは異なる形で“非人間的な生”に閉じ込められていると言えるでしょう。

しかし、物語はやがて彼女をその閉じた世界から引きずり出して行きます。トゥアナル村から逃れてきたBB-8との出会い、撃墜され漂流してきたフィンと出会い、彼女は図らずも銀河を舞台にした壮大な冒険へと踏み出して行きます。ミレニアム・ファルコンを駆り、伝説のハン・ソロと出会い、惑星タコダナではルーク・スカイウォーカーのライトセーバーを通じて自らの運命を垣間見る…。

とはいえそんな急激な変転の中でも、レイの態度は一貫して「冒険の召命への拒否」を示します。この姿勢は『新たなる希望』のルーク・スカイウォーカーを思わせますが、その内実はまるで異なるものと言えるでしょう。ルークが農場に留まろうとしたのは、たしかに現状を変えたくないという消極性にも拠りますが、同時に叔父夫婦への配慮や、家族の一員としての責任感も確かにあったのです。そこには“他者”が存在しています。しかしレイには守るべき、義務を果たすべき、慮るべき、”他者”は存在しないのです。

”他者”なき孤独な半生を生きるレイ。そこには義務も責任もない

唯一の”他者”であるはずの両親はすでに記憶の彼方であり、にもかかわらず彼女の中ではただ「いつか迎えに来てくれる存在」としてその心を占めているのです。物語開始時点でもはや成人と言える年齢であるにもかかわらず彼女がなおもその幻想を信じて待ち続けているという事実は、悲しいことに彼女の精神が「白馬の王子の到来を待つ少女」の段階に留まっていることを示していると言えるでしょう。レイは“強い”女性であると同時に、成長を奪われた少女とも言えるのです。『フォースの覚醒』に登場する三人の主人公──レイ、フィン、そしてポー。彼らはそれぞれに経験と技能を備えた人物でありながら、どこか「地に足のつかない」印象を残します。良くも悪くも、彼らの内には「少年少女らしさ」が宿っているように思えるのです。

レイは他者と協調する術を学ぶ機会を持たず、孤独の中で生き抜いてきました。そのため、本作における彼女の行動には徹底した「受け身」の姿勢が見て取れます。一方、フィンは積極的な性格ゆえに成長の兆しを早く見せるものの、幼少期からの軍事的洗脳によって普通の生活感覚を欠いています。所々で窺える彼の「浮世離れ」はその証左でしょう。そして、最も成熟して見えるポー・ダメロンでさえ、どこか危うさを抱えて見えます。彼は重要任務を担いながら、トゥアナル村の虐殺を前にして感情のままに行動し、状況を顧みず敵の大軍に突入してしまいます。その衝動はノベライズ版で「そうしなければならない直感」と表現されており、冷静に見れば責務を忘れた無謀な行動と言う他はないでしょう。

このように、彼らはそれぞれの形で未熟さを抱えた「少年少女」とは言えないでしょうか。
やがて彼らは、「巨悪との戦い」という伝説的な冒険へと繰り出して行くことになります。しかし彼らの旅路は単なる成長物語ではなく、むしろ「伝説」に導かれ、その幻想に囚われた存在として描かれているように思えるのです。

【ファースト・オーダーの“少年”たち】

レジスタンス側の若者たちが伝説を追い求めるように、敵対するファースト・オーダー側にもまた、「伝説」に取り憑かれた若者が存在します。黒衣に身を包み、赤い光刃を振るうカイロ・レン。そして若くして将軍の地位に登りつめたアーミテイジ・ハックスです。この二人の関係は、一見すると旧三部作のベイダーとターキンを思わせるものでしょう。しかしその実、彼らの間にあるのは成熟した政治的駆け引きではなく、未熟さと焦燥に満ちた疑念と競争心でしかありません。

ハックス将軍は帝国軍将校ブレンドル・ハックスの息子として生まれました。ジャクーでの敗北後、父は帝国再興を目指してファースト・オーダーの創設に尽力しましたが、志半ばで「病死」します。父の死後、アーミテイジは父の地盤を引き継ぎ、組織の中枢に上り詰めます。スターキラー基地での狂信的な演説が示すように、彼は支配欲とサディズムの権化のようにも見えますが、単なる悪人でもありません。彼の人格の根底には、少年時代に父から徹底的に刷り込まれた「帝国史観」が存在しているのです。彼にとって帝国とは「銀河に秩序をもたらした偉大な国家」であり、反乱軍はその平和を破壊したテロリスト。新共和国は統治能力を失った劣等な政体である…そう信じ込まされていたのです。つまり彼もまた、「銀河帝国」という伝説に取り込まれた少年の一人だったのです。

そしてカイロ・レン。彼の本名はベン・ソロ。ハン・ソロとレイア・オーガナの子であり、強いフォースの資質を受け継ぐ存在です。なぜ彼が光を捨て、闇を志したのか。その理由は次作で深く掘り下げられるものですが、本作時点で興味深いのは、「彼が信じた伝説」が歪んだ形で伝えられていたという事実でしょう。ベンにとって「ダース・ベイダー」は憧憬の対象でした。その起点は、自らが“ベイダーの孫”であるという事実を、家族から隠されていたことにあります。オーガナとソロの血を引き、スカイウォーカーの系譜に属する彼は、生まれながらに「伝説を背負わされた子」でした。しかしその伝説は、栄光と呪いが入り混じったものでもありました。彼はその重圧を信頼すべき家族から正直に告げられず、よりによって政治的なスキャンダルという形で、全銀河に向けて暴露されるというもっとも無神経活残酷な形で知ることになるのです。この事件は、彼の信頼を根底から崩壊させたのは当然でしょう。「真実そのもの」よりも、「真実を隠されていた」「最も信頼していた家族に”騙されていた”」という感情こそが、彼の心を暗黒へと傾けた要因だったのです。

スノークはベンの心の隙に入り込み、「自分を理解してくれる唯一の存在」として寄り添って行きます。それは、かつてアナキンがジェダイやオビ=ワンへの信頼が不完全なままに、パルパティーンに魅了された過程を思わせます。 ベンもまた、「頼るべき者たち」との絆を築けず、闇に導かれていったのです。

カイロ・レンが崇めたのは、祖父アナキンの「光」ではなく、ダース・ベイダーという「闇の伝説」でした。 スノークによって歪められた「ベイダー像」を信じ、彼はその象徴であるマスクに執着して行きます。スター・ウォーズ世界において、シスは「依代」に特別な意味を見出す存在と言えるでしょう。レジェンズ時代から馴染み深いシスのアミュレットや、カノンで大きな印象を残すモミン卿のマスクなど、怒りと憎しみといった、本来一時的な二次感情を基盤とするシスたちは、ジェダイ以上に感情を維持するための依代を必要としたのでしょう。ベイダーの生命維持装置もまた、肉体に苦痛を与え、怒りを絶やさないためのある意味「依代」でした。同時に昨今の作品で印象的な、割れたマスクの隙間からのぞくアナキンの素顔は、「魂を幽閉された男」の象徴でもあります。カイロ・レンがベイダーのマスクを手に取り、それを模した兜を身につけたのは、単なる模倣以上の意味を持つものでしょう。それは伝説と血筋、そしてベイダーのマスクから放たれる暗黒面の残り香とでも呼べるものに取り憑かれた者の儀式だったのかもしれません。

”ベイダーのマスク”はアナキンの真実を越えて人々に影響を及ぼす
マスクは憧れではなく自らを隠すための依り代なのか

そんなレイ、フィン、ポーとは異なる形で伝説に囚われた「子どもたち」である二人の上には、絶対権力者としてファースト・オーダーの最高指導者スノークが君臨します。彼の存在はまるでベイダーとターキンの上に君臨するパルパティーンを思わせますが、パルパティーンがひとかどの実力者たちを使いこなしていたのとは対照的に、スノークは若く未熟な者たちを弄ぶ「悪意ある大人」として描かれているように思えます。

【伝説を知る者たちの導き】

ファースト・オーダーの司令室に、巨大なホログラムとなって現れるスノークの姿は強烈な印象を与えました。彼がどんな存在なのか、その正体は本作では明かされませんが、少なくとも彼はカイロ・レンやハックスとはまるで異なる時間軸を生きてきた者だということが分かります。彼は共和国の没落も、帝国の崩壊も、自分の目で見届けた「伝説を知る者」なのです。

この場面の直前、物語はジャクーで出会ったレイ、フィン、そしてBB-8の逃避行へと展開して行きます。ミレニアム・ファルコンの登場、ドッグファイトの興奮、そしてファルコンを追って現れるハン・ソロ…まさに新旧の世代が交わる瞬間であり、ここで物語のトーンは明らかに変わります。若者たちの冒険がひと段落したところで、今度は彼らが憧れ、囚われてもいる「神話の側の人物」たちが姿を現すのです。ハン・ソロ、マズ・カナタ、そしてスノーク。それぞれが異なる形で“導き手”となって行きます。

ハン・ソロは言うまでもなく、「銀河内戦の英雄」という伝説を体現する男であると同時に、「伝説の証人」としての役割も果たして行きます。フォースもジェダイも「作り話」だと思っていた彼が、今度は“真実を知る者”として若者たちを導く立場に立つ。かつて彼が「奇妙な老人」と呼んだオビ=ワンのように、自分がその役割を担うことになるのです。なんとも皮肉で、しかし美しい円環ではないでしょうか。

かつて”伝説”を嘲笑った者が
本作では”伝説”を体現し、伝える者の役割を果たす

そしてもう一人の「伝説を知る者」はマズ・カナタ。彼女もまた長い時を生き、銀河の歴史をその目で見届けてきた存在です。しかしスノークとマズは、同じ“導く者”でありながらジェダイとシスのようにまったく異なる方向から若者たちに手を差し伸べます。スノークは歪められた「伝説」を使ってカイロ・レンを縛ろうとする一方で、マズはフォースを信じること、そして自らの役割を受け入れる勇気を説きます。彼女の言葉には、宗教的な啓示というよりも人生の知恵のような穏やかさが感じられます。しかし、ここで二人の若者レイとフィンは揃ってその“冒険への召命”を拒絶します。

レイはジャクーで両親の帰りを待つという幼い夢を捨てきれずマズの言葉に背を向け、フィンもまた自らの自由と尊厳を取り戻すことに手一杯で、“大義”のために戦うにはまだ早すぎたのです。彼らにとって「伝説」はまだ他人事なのです。

【超自然的な力の介入】

しかし、ここでまさに「英雄の旅路」の定石でもある“超自然的な力の介入”が起こります。

ファースト・オーダーがついにその牙を剥いたのです。スターキラー基地が放たれ、新共和国は一瞬で壊滅してしまいます。あの閃光が宇宙を走る瞬間、まずはフィンの心に「もう元の場所へは戻れない」という現実が突き刺さるのです。拒み続けた“冒険への召命”が、彼らを強制的に飲み込んで行きます。ここから、物語はようやく本格的に「伝説の中」へと踏み込んでいくのです。

このシーケンスではレイやフィンの“幼さ”と、それを取り囲む「伝説を知る者」たちの存在がくっきりと対比されます。若者たちがまだ“何者でもない”ことを痛感させる一方で、ハンやマズといった先達が静かに背中を押す…。この構造こそ、『フォースの覚醒』が旧三部作の効果的な再演、つまり「伝説を継ぐ物語」であることを象徴しているのではないでしょうか。

さて、『新たなる希望』でルークを冒険へと踏み切らせたのは、帝国軍による叔父夫婦の虐殺でした。皮肉にも帝国は、自らを成り立たせていた残虐さによって、自らの破滅を招く運命を切り開いたことになります。そして、その構造はスピンオフ作品にまで目を向けても繰り返されている。帝国の残虐の象徴であるデス・スターは、惑星ごと一つを消し去るという圧倒的な破壊力を誇りながらも、その力の誇示によって恐怖と反感を同時に撒き散らしました。数十億の命を奪い、帝国の威光を見せつけるその行為は、やがて帝国自身を内部から蝕んで行きます。人々は恐怖に支配される代わりにその忠誠を棄て、疑問を持ち、反抗の火種が新たな反乱を生み、デス・スターの破壊と帝国の瓦解へとつながって行きました。この「暴力が暴力を呼ぶ円環」の再現。その起点となったのがファースト・オーダーの誇る超兵器スターキラー基地だったのです。

帝国の過剰な残虐が帝国を滅ぼす者の運命を拓く
ファースト・オーダーの過剰な暴力が英雄の運命を拓く

【余談:ルーカスとエイブラムスの差】

そんなスターキラー基地はしばしば「デス・スターの焼き直し」と批判されます。しかし、そもそも『スター・ウォーズ』は「円環の物語」であり、構造やモチーフの反復は必然であるとは言えないでしょうか。『フォースの覚醒』は明確に『新たなる希望』を意識しており、その意味でデス・スターの「焼き直し」であるスターキラー基地の登場は自然な帰結と言えるでしょう。

問題は「焼き直し」そのものではなく、むしろそのモチーフを通して垣間見えるJ・J・エイブラムスとジョージ・ルーカスの“物語世界への態度の違い”ではないでしょうか。スターキラー基地の設定には「第五の力」「ファントム・エネルギー」「ダーク・エネルギー」といった難解な用語が並びますが、数十年を経た世界で新たな発見や技術革新があるのは当然のこととも思えます。 むしろ引っかかるのは、エイブラムスのDVDコメンタリーでの次の発言です。

「スターキラー基地から放たれた光線が別の星系でも観測できることは現実にはあり得ないが、この作品は科学の授業ではない」

つまり、現実的な整合性よりも「演出上の見栄え」を優先したということです。

一見、これはかつてルーカスが語った「私の宇宙では音が鳴る」という発言と似ているように思えます。しかし、両者の意味は正反対でしょう。ルーカスが言いたかったのは「現実と異なる世界を創った以上、その内部では一貫した法則を保持すべき」という、内的整合性への信念でした。一方エイブラムスの発言には、その整合性への配慮が感じられません。彼の態度は、端的に言えば「映画だからいいじゃないか」という一種の開き直りを感じさせ、それが後に『最後のジェダイ』のホルド機動(ハイパースペース特攻)論争を過熱させる原因の一端となったと言えるのではないでしょうか。ホルド機動をめぐる議論の多くは「設定的におかしい」という方向に向かいがちだですが、根本には「物語世界の内部での必然性を軽視していないか」という不安があると言えるでしょう。『スター・ウォーズ』が単なるスペクタクルではなく“神話”として人々の心に根付いてきたのは、その世界の内部に一貫した「理」が存在したからです。ゆえに、ルーカス的な“内的真実”を欠いた「模倣」は、たとえ見た目が正しくとも魂を欠くと言わざるを得ないのです。『フォースの覚醒』は、「スター・ウォーズらしさ」を忠実に再現しようとした“信心深い”作品でしょう。しかしその信仰ゆえに、ある種の「理解の浅い模倣」も散見されます。私は決して「金儲けのためにスター・ウォーズをつくっている」といった露悪的な意見に賛同しませんが、それでもこういったルーカスの“神話的構築”とエイブラムスの“映像的再現”の間には、越えがたい断層があると感じざるを得ません。

【レイの覚醒】

閑話休題。スターキラー基地の攻撃によって新共和国の首都ホズニアン星系が消滅。しかし一撃で国家を壊滅に追いやるほどの破壊力を前に、レジスタンスは怯むことなく反撃を決意します。逃亡者だったフィンは「戦士フィン」として再び戦場に立ちます。一方、レイは彼らとは異なる形で「超越的な力の干渉」を受けることになります。カイロ・レンによって囚われたことをきっかけに、彼女の中に強大なフォースが目覚め始めるのです。カイロ・レンがレイのなにに惹かれたのか。それは本作では明かされません。のちに明かされる「フォース・ダイアド」フォースにおける“一対の存在”という概念は、この時点ではまだ構想段階に過ぎなかった、もしくは構想さえされていなかったかもしれないものでしょう。しかし後の『スカイウォーカーの夜明け』で提示されるように、レイとベンの関係は重要な要素となって行きます。

しかしこの時点では理由の分からぬままレイに惹かれ、その存在を「理解できない何か」として恐れ、執着して行くカイロ・レンの介入に強い拒絶反応を示す彼女は、ついにフォースに開眼。レイはついに「召命の拒否」を終える方向に歩みを進めます。彼女を強引に運命へと導いたのは、皮肉にもその“片割れ”であるカイロ・レンだったのです。

”片割れ”どうしが激しく引きつけられるが、当人たちはまだその”絆”を知らない

そして物語はクライマックスへと突き進みます。レジスタンスはスターキラー基地を破壊するため、フィンの知る情報をもとに決死の作戦を開始。基地には致命的な弱点があり、それを突くには強力な惑星シールドを突破しなければならないことが明らかになって行きます。

その任務に志願したのがハン・ソロとチューバッカ、そしてフィンです。彼らはファルコンに乗り込み、勇躍スターキラー基地へと向かいますが、大きな問題にぶち当たることになります。

【伝説の外の人々】

レジスタンスによるスターキラー基地への破壊工作に、フィンは作戦の要として志願しましたが、そこでひとつ大きな誤算があったのです。彼は基地のシールド解除に関する具体的な情報など何も知らなかったのです。すべてはレイを助け出したいという衝動から出た嘘だったのでした。

彼の行動は「勇気」と「未熟さ」が同居したものと言えるでしょう。虐殺を拒み、脱走し、戦士となる決断を下した彼はたしかに要所で成長を見せてきました。しかしその一方で、かつてストームトルーパーとして「命令に従うだけの存在」として育てられた過去が、彼の常識を深く蝕んでいたことも窺わせます。


自分が救いたい仲間のために嘘をつく。それが多くの命運を左右する場面であっても。この行為は、彼が「個」として目覚めつつも、まだ「全体」を背負う覚悟に至っていないことを示していると言えるでしょう。しかし敵が幸運を運んでくることになります。元上官キャプテン・ファズマを捕らえ、シールド解除に成功するのだ。

この一見情けない上官と思えるファズマというキャラクターは、実に現実的な生存戦略を宿していると言えるでしょう。彼女はファースト・オーダーの生え抜きではありません。もともと「サイア一族」という戦士集団の出身で、荒廃した惑星パナソスの限界集落に生きていました。文明が崩壊したその世界で、どれほどの力を持っていても未来はない。だからこそ、彼女は故郷を――そして兄をも――切り捨て、偶然めぐりあったブレンドル・ハックスとともにファースト・オーダーの一員となったのです。

彼女にとってファースト・オーダーは「信念」ではなく「生存の手段」に過ぎないものでした。その中で彼女は恩人ブレンドル・ハックスを殺害し、その息子アーミテイジと手を結ぶことでのし上がって行きます。表向きは“キャプテン”でありながら、実質的にはストームトルーパー部隊を掌握する権力者となり、スノークの側近にまで上り詰めたのです。つまり、ファズマがシールドを解除したのは、ある意味当然の選択だったのです。彼女にとって忠誠心とは目的ではなく、自己保存の手段に過ぎないものでした。脅されれば従い、危険が去れば証拠を消して元の地位に戻る。その冷徹な合理主義は、往年のハン・ソロのように、本作を彩った「伝説」と、それに憧れる者たちとはもっとも遠い存在するものと言えるでしょう。


この世界で生き残るためには、神話を信じるよりも計算すること。そうした冷たい現実主義が、彼女の行動のすべてを支えているのです。そして、次作『最後のジェダイ』に登場するディージェイ(DJ)もまた、同じく「現実」だけを生きる人物でした。 どちらも“伝説の物語”の只中にいながら、その神話性を信じず、むしろ利用する側に立つ。彼らは「信仰なき者」として物語の中に配置されるが、同時に「信仰の時代における現実の声」でもあると言えるのです。

ファズマの姿は本作ほぼ唯一の「現実」を生きる者として異彩を放つ

【父殺しの神話】

スターキラー基地のシールド解除に成功し、あとはポー率いる攻撃部隊の作戦を祈るばかりとなったフィンたち。しかしハン・ソロにはもう一つ果たさねばならない役目が残っていました。この地にいることが明らかな息子ベン・ソロとの対峙です。

長いあいだ彼は、息子と真正面から向き合うことを避けてきました。そして今、どうすれば闇の道から彼を取り戻せるのか、その答えを持たないまま、ハンはただ一人、息子の前に立ち、愚直なまでに「父」としての思いを告げることになります。しかし、その言葉が届くことは在りませんでした。カイロ・レンはライトセーバーを起動して父の胸を貫き、銀河の英雄ハン・ソロはそのまま無限の深淵へと落ちて行きます。

伝説的人物の死が多くの人々の運命を動かす

この場面はファンダムの間で大きな波紋を呼びました。もちろん、メタ的にはハリソン・フォードが『ジェダイの帰還』当時から望んでいた「ハン・ソロの死」を叶える意図もあったでしょう。しかしそれ以上に重要なのは、ここが“神話的構造”における「父殺し」の瞬間だという点です。神話において「父殺し」は必ずしも悪や背徳を意味しません。それはしばしば、「古い価値観からの解放」つまり、精神的自立を象徴する通過儀礼でもあり得ます。英雄たちはときに堕落し、死に、そして父を”殺す”ことで新たな自我を獲得するのです。アナキン・スカイウォーカーが闇に堕ち、ベイダーという自らの屍を打ち砕くことで再びアナキンとしてよみがえったように。またルークがベイダーという父の暗黒面を断つことで、真のジェダイとして目覚めたように。スター・ウォーズという物語は、一貫して「父殺しの神話」としての構造を備えてきました。

しかしカイロ・レンの「父殺し」はそれらとはどこか違うものです。彼はその瞬間、闇に覚醒したわけでも、罪悪感に押しつぶされたわけでもありません。ただ、震えるような迷いを抱えたまま、父を殺したのです。ノベライズ版では、こう記されています。

カイロ・レンは己の行動に驚き、両膝をついた。この行動によって自分は強くなれるはずだと、自分自身の一部は信じている。だが実際には、弱くなったと感じていた。

この描写は、単なる意志の弱さではないでしょう。彼の中には、常に“ベン・ソロ”というもう一人の自分が息づいていたのです。かつてアナキンが「生命維持装置」という“暗黒面の揺りかご”に包まれることで己の過去を封印できたように、カイロ・レンもまた“何か”によってベン・ソロを押し殺そうとしましたが、彼にはそれがありません。そのため彼は、ベイダーのマスクを過剰に崇拝すると言えるのです。それは信仰ではなく、自己暗示であり、「過去の自分を完全に殺すことができない」という恐れの裏返しだったのではないでしょうか。その結果として、カイロ・レンは「中途半端な悪」として描かれるのではないでしょうか。しかしその中途半端な曖昧さこそが人間的な苦悩の表れであり、それゆえにこの“未完成の父殺し”によって、彼の救済の萌芽ともなるもの「罪悪感」を獲得したのではないでしょうか。だからこそあの場面のカイロ・レンの表情はあれほども弱々しく、その内面も不確かなものだったのではないでしょうか。そして罪悪感とは闇の力ではなく、光の誘惑を強める種であり、つまり「救済」への第一歩です。そしてそれはやがて『スカイウォーカーの夜明け』で、彼が父と再会し、和解を果たすその時、この未完の儀式はようやく完成するののです。

裂かれた父と子の絆
修復された父と子の絆

【ハンの死の意味】

もちろんハンは自ら望んで死んだのではありません。しかし結果的にそれは、父としての“償い”でもあったように映ります。スター・ウォーズの神話は一貫して、「師」あるいは「父」が、自らの過ちによって堕落した「弟子」や「子」を救うことはできないことを物語っています。オビ=ワンがアナキンを救えなかったように。ルークがベン・ソロを救えなかったように。つまり、語弊を恐れず言えば、「加害者」は「被害者」を救えないのです。ベンをカイロ・レンへと追いやったのが家族自身である以上、ハンやレイアは、もはや彼を直接「救う」ことができなかったのです。では、誰が彼を救うのか。

それは、彼の因果とは無関係な“他者”、つまりレイでしょう。 その彼女もまた、ハンの死によってその道を歩み始めるのです。ハン・ソロは、作中においてベンの、というよりレイにとっての父のような存在として描かれてきました。孤独な彼女の才能を見出し、ファルコンの操縦を任せ、共に行動した彼は、 “信頼できる大人”として初めて彼女の前に現れたのでした。その「父」を目の前で殺されたレイの喪失感と怒りは、かつてオビ=ワンを失ったルークのそれと同じでしょう。そしてオビ=ワンの死がルークを「庇護される子」から「自立する者」へと変えたように、ハンの死もまた、レイを真の意味で“旅立たせる”契機となったのではないでしょうか。それは、彼女が「待つ者」から「動く者」へと変わる瞬間でした。そしてその彼女との出会いと戦いを通じて、ベン・ソロもまた自らの罪と向き合う道を歩み始めることになるのです。

”師父”オビ=ワンを失い運命に踏み出すルーク
”父”ハンを失い運命に踏み出すレイ

そしてハンの死が繋いだ絆はそれだけではありません。すべてが終わったあと、ディカーで抱き合うレイとレイア。しかし物語中ではこの二人の間に特別な関係が築かれていた描写はありません。しかしフォースを通じて夫の死を悟ったレイアと、目の前で「父の死」を目撃したレイの間には、互いにその意味は違えど「愛する者を失った」者どうしの連帯が生まれたと考えることができます。その瞬間、レイは新たな「母」を見つけたのです。しかしそれはかつて彼女が待ち続けた「庇護する母」ではなく、導き手としての「太母」的存在なのです。ハン・ソロの死が、ふたりの“母と娘”の絆を生み出したと言えるのです。そしてこの絆が、『最後のジェダイ』以降のレイの成長を支えていくことになります。まさに、ハンの死はレイを自立させ、レイアと結びつけ、同時にベン・ソロの贖罪への道をも導いた「儀式」だったと言えるのではないでしょうか。

ハンの死はレイに新たな導き手をもたらした

ハン・ソロは、彼自身が選んだものではなかったものの、その死によって、息子には「罪悪感」という救いへの種が、娘には「自立」という希望が、そして銀河には新たな光がもたらされたと言えるでしょう。ハリソン・フォードが長年望んだ「ハンの意義ある最期」は、このようにして、見事に実現したと言っていいのではないでしょうか。

物語はここでひとつの幕を閉じます。しかし伝説は終わりません。レイは完成した地図を手に、ジェダイの故地、惑星オク=トーへと向かいます。そして、孤独な断崖の上に立つ“伝説のジェダイ”ルーク・スカイウォーカーと出会うのです。その表情は、いったい何を意味するのか。彼は「伝説」を求める者たちに、どんな答えを示すのか。

あらゆる人々が探し求めたルーク。しかしその表情は…

“伝説”という名の太陽の周囲をめぐる彼ら”惑星”は、次作以降どのような軌道を描いて行くのでしょうか…。

参考資料

スター・ウォーズに触れるなら、全作品を網羅したDisney+での視聴がもっとも簡便かつ効率的です。

Hulu | Disney+ セットプラン

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