本記事はジョージ・ルーカスが絶大な影響を与えたとされる神話学の大家ジョゼフ・キャンベルの著書『千の顔をもつ英雄』をベースに、その要諦と『スター・ウォーズ』への影響を考察することを目的としています。過去の記事はこちら#1 #2 #3
第二章 イニシエーション
試練の道
冒険の旅へと足を踏み入れた英雄は、そこで私たちには及びもつかない試練の数々を経験します。そして手に汗握るそれらの場面こそが世界中の神話や物語が私たちを魅了する最大の理由の一つなのですが、不思議なことにこれら「手に汗握る冒険」の数々がどのような文明圏でもある程度似通ったあらすじが散見されます。いったいなぜなのでしょう? それは所詮人間のイマジネーションには限界があるということを表しているに過ぎないのでしょうか?
著者は現実世界において英雄の冒険と似た精神的旅路を歩むシベリアのシャーマンの存在に言及します。彼らは呪医として病人の治療を行う際、精霊とともに自らの魂をはるか彼方へと飛ばし、厳しい冒険の果てに冥界へと赴き病気の原因や生贄の方法を探り出してくるというのです。「エビデンス」などという言葉は言うも虚しい彼らの「治療」ですが、それでも彼らが歩む行程は物語の英雄たちのそれと酷似しています。
本項において著者は精神分析と人類学を組み合わせた研究を行った民俗学者ゲザ・ローハイム博士の言を主体としてこう述べています。
ゲザ・ローハイム博士は次のように書いている。「あらゆる未開部族には呪医がいる。そして呪医が神経症患者または精神異常者であり、少なくともその治療行為が神経症や精神異常と同じメカニズムを基盤にしていることは、容易に説明できる。人の集団はその集団の理念によって動き、理念は常に幼児期の状態を基盤にする」「幼児性をもつ状態は成人になる過程で変化したり反転したりし、さらに現実社会に適合させる必要から変化する。それでも幼児性はそこにあり、人の集団が存在するために必要な、目に見えないリビドー的結び付きをもたらす」したがって呪医は、その社会の大人一人ひとりの精神に存在する象徴的な幻想を抱くシステムを、目に見えるようにし、周知させるだけなのだ。
私たちはどれだけ高度な教育を受けていようと、どれだけ常識ある人間としての言動を心掛けていようと、結局のところ幼児期のエゴや衝動を原材料とするリビドー(根源的欲望)を巧みにカムフラージュさせながら「教育ある大人」として振る舞っているに過ぎないのではないでしょうか。しかし「それでも幼児性はそこに」あるのです。
数多の物語で展開する手に汗握る冒険譚の数々は、そんな根本では幼い子どもに過ぎない私たちの欲望や衝動をつかみだし白日の下にさらす、象徴的寓話の数々に過ぎないのではないでしょうか。しかしそれらは決して単なる子ども染みた絵空事に終わらない意義を持っているのです。
「呪医はこの幼児性をもつ社会的行動の主導者であり、共通する不安を照らす指導者である。呪医は、他の者が獲物を追い、普通に現実と戦えるように、悪魔と戦うのである」
「呪医」とあるところを「英雄」もしくは「物語」と言い換えればよりその意味するところが呑み込みやすくなるのではないでしょうか。英雄たちの冒険には私たちが普遍的に感じる喜怒哀楽が織り込まれ、人間としてあるべき姿を提唱し、人間として抱える不安を照らし出して寄り添い、物語に触れる人々が各々の現実と戦えるように、人々の心に巣食う暗闇と対峙する手助けをしてくれる存在と言えはしないでしょうか? 「英雄」とは私たちの理想や弱さを照らし出し寄り添ってくれる存在であり、そんな彼ら彼女らにめぐり合わせてくれる「物語」そのものこそが真の英雄と言えるのかもしれません。
過去の世代の人々が神話や宗教の形で受け継いだ象徴や精神的修練に導かれて通った心理学的に危険な事態を、現代の私たちは(略)一人で立ち向かわなければならず、助けがあったとしても、せいぜいあやふやで間に合わせで、たいていはあまり役に立たない手引きにすぎない。これは、現代的で「啓蒙された」人間としての私たちの問題で、そういう私たちのせいで、神や悪魔は合理的に説明されて存在しなくなってしまった。
現代的で「啓蒙された」人間である私たちにとっての「心理学的に危険な状態」とはどのような状態を指すでしょう? 身の安全や食はある程度保証され、医療技術の発達によって体は壮健。十分な教育も受け、無益な迷信に心惑わされることもない。そんな私たちが心悩ますものの根源にあるのは「ジャッジメント」の弊害ではないでしょうか?
人間関係の不和や承認欲求の不充足感といった「他者」の存在や言動に心煩わせることになる原因の第一は、自らの影響の範囲外に位置する者の言動に対する「ジャッジメント」にあるのではないでしょうか。自らを善とし他を悪とすることで怒りに駆られ、または他を善とし自らを悪とすることで思い悩み・・・。人が精神的窮地に陥るのはおおよそ他者とのかかわりの中で、信仰や伝統に裏打ちされた「絶対」の規範を持たないにもかかわらず「善悪」という基準で物事を判断してしまう時ではないでしょうか?
英雄は自分とは正反対のもの(思いもよらない自分自身)を発見し、呑み込むか吞み込まれるかして、それと融合する。(略)そうすると、自分も正反対のものも、なんら違うところはなく、同一の肉体であることがわかる。
皇帝の間において、ルークは怒りに駆られて暗黒面の力を手にすることで、強敵であったダース・ベイダーを完膚なきまでに叩きのめします。無惨に這いつくばるベイダーの斬り落とされた右腕を見たルークは、それが自分と同じ機械の義手であることに気付いて慄然とします。暗黒面の行き着く先を悟ったルークはその場ですべての力を手放し、自らをジェダイであると宣言するのですが、同時にこのときのルークはダース・ベイダーをもはや「邪悪な強敵」でも「憐れむべき落伍者」でもなく、自らと同じ強さと弱さを持った一人の人間であると悟ったのではないでしょうか?
「裏切者ベイダーを倒す」ことを求めるジェダイの先達たちの言葉に背を向けて「父アナキンを救う」ことを心に決めたルークですが、自分自身がかつての父と同じ過ちを犯した瞬間、はじめて父を突き動かした切実を理解し、自らの手で倒すことや救うことを望む傲慢を知り、自らと対等な一人の人格として受け入れたのではないでしょうか。
かつてジェダイは「銀河の調停者」として尊敬を集めました。そして「調停」とは異なる意見を持つ両者のすり合わせや相互理解を促すことであり、どちらか一方の言い分を是とし、他方を否とする「審判」とは異なるのです。しかしプリクエル時代のジェダイたちはシスの影に慄き、戦争の混沌に呑み込まれ、混乱の時代に生きる人々がいつもそうであるように善と悪や光と闇の二元論に深く染まり、いつしか調停者から審判者となったことでその本分を見失って行きました。ルークは自らが属すべき規範とは正反対の規範に身を委ねることで双方の視点を獲得し、真の意味でジェダイの本分を体得したのではないでしょうか。
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