『スター・ウォーズ 禁断の真実(ダークサイド)』〈粗悪タイトルに騙されるな! ファン共感必至の良解説書〉【関連書籍】

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(・・・)『STAR WARS』のロゴマークが刻印された宇宙はあまりにも大きくなりすぎたため、その全貌を把握することは事実上不可能である。それはもはや、誰の手にも負えない領域にまで膨張し拡大した、大衆文化史上のブラックホールのようなものとなった。

SWはもはや一つの宗教と呼べるのではないでしょうか? この宗教にハマってしまった人々は世の健全な方々から見れば不可解なほどこれに囚われ、これを愛し、憎み、語るのでありますが、その「信仰心」は時に世の健全な方々をしてカルト教団の出現かと慄かせるほどの狂態痴態をも演じさせ得るのです。そしてこの宗教はまた、如何な狂信者でさえも完全な把握は不可能なほど膨大な教義=設定を有してもいるのです。一歩その探索に向かったが最期、モー星団のブラックホールにでも飲み込まれた宇宙船よろしく探索者の精神は遥か彼方の銀河を永遠に彷徨うことになるのです。しかし信者にとってはその時間もまた至福なのだから救いようがありません。

『スター・ウォーズ』という〈ブラックホール〉は決して恐ろしいものではない。あまりの巨大さに目眩を覚えることは確かだが、ひとたび〈ブラックホール〉の中に目をやれば、そこに新鮮な驚きや意外な楽しみが詰まっていることがわかる。

本書はSWをこよなく愛する著者が各エピソードを題材として「自由連想的に」その思いの丈を語った一冊であります。内容としてはストーリーや人物像の詳細ではなく、飽くまで「映画作品としてのSW」が制作された背景と意義、その存在が映画界にもたらした影響等々を語る至極まっとうな内容の書籍であります。

なお、これはいくら強調してもしすぎることはないないのですが、本書のタイトルは内容を反映していないばかりかあらぬ誤解をも招く粗悪なものであり、失礼を承知で言えば本書あとがきに記されている通り著者の意向と無関係にこのような書名を押し通した出版社のセンスを疑う次第です。大事なことなので太字で言いました。

ルネサンスの旗手

さて、SWとはなんでしょう。「子供向けのSF映画」。SWに興味がない、または好きではないという方々のなかにはそう仰る方も多いことでしょう。そしてそれはその通りなのです。徹底して「子供向け作品」であること。それが教祖…もとい監督ジョージ・ルーカスの矜持であります。如何に昨今のスピンオフ作品群によってストーリーや人物像にリアルな彫り込みが与えられてゆこうと、それは「SW世界」を愉しむための一つの「調理方法」に過ぎず、SWのスタンスは飽くまでも「子供向け」なのです。しかし「子供向け」であることと「子供だまし」であることは絶対にイコールではない、と著者は訴えます。なぜなら・・・

(中略)子供は大人ほど「見立てる力」―それは概念やクリシェに寄ってかかることでもある―を持ち合わせていないため、残酷なまでに「自分が信じられるレベルのリアリティ」を要求する。これは一般に子供が大人より事物を近距離で観察する機会が多いこととも関連している。子供たちが裸眼で至近距離からものを見るのに慣れている一方、大人は周囲の環境すら観念化して把握するのに慣れきっていることがほとんどだ。

『スター・ウォーズ』は、スクリーン越しに質感を感じ取れるほどの「リアリティ」を備えていたがために子供たちの目を驚異に見開かせることに成功し、それは大人においても同様だった。

そしてSWは単によくできたSF映画に留まらず、映画に関わる人々の認識を変え続けてきた「ルネサンスの旗手」であり、「革命の旗手」でもあるのです。旧三部作ではスペースオペラという忘れられたジャンルに再び脚光を浴びさせたことで。新三部作ではCGIという新技術を駆使して映画制作の環境を永遠に変えてしまったことで。本書で印象的なのは『EPⅠ』制作を実現させたCGI技術による「デジタル革命」の意義。これによって映像表現は「長足の進歩」を越えて「別次元への跳躍」を遂げたということです。

「スクリーンに映し出された映像を観て、私の目には涙が浮かんでいた。それは電話や電球の発明にも匹敵する、歴史的な瞬間だった。非常に大きな溝が乗り越えられたということであり、映画はこれまでとはまったく違う次元へと突入したのだ」

とはSWを観たとある熱狂的ファンの反応・・・ではなく盟友スティーブン・スピルバーグが制作した『ジュラシック・パーク』を観たルーカスの述懐だそうです。縦横無尽に暴れ回る恐竜たちを生み出したCGI技術に自らがイメージする新三部作に「質感を感じ取れるほどのリアリティ」を与え得る新たなる絵の具を見出したルーカスが制作したEP1は「SWサーガの新たなる幕開け」というマニア以外にはどうでも良いことに留まらず、「映画づくりの新たなる幕開け」をももたらしたのでした。もはや莫大な予算を使用して巨大なセットを作る必要も、大量のエキストラを集める必要もなく実際には存在しないものを作り出すこの現代の錬金術は、コスト回収が困難という理由で死に絶えかけていたいわゆる「超大作映画」の息を吹き返させたということです。

「多くのジャンルが衰退していたが、テクノロジーの力によってふたたび作ることができるようになった。永きに渡って不可能だと思われていた史劇や、スケールの大きい合戦を描く映画も可能になったんだ」(中略)映像技術はSF映画だけのものものではない。我々は映像技術の最前線で、芸術の可能性を押し広げたんだ。

「デジタル革命」によってもたらされた新たな映画制作スタイルを著者は「映画のパズル化」と表現します。CG技術によって作られた背景、爆発や煙のような表現素材、そして俳優すらもそれら人工背景に組み込まれるピースとなることによって、映画づくりは多くの制限や枷から解き放たれたのでした。そんな無限の可能性を与えられた映像表現ですが、一方で俳優に何もない空間での演技を強いるような従来の方法を無視した映画制作スタイルへの批判も同時に生まれま。良い面も悪い面も併せ持つというまさにフォースの二面性を思わせるこの新たなるテクノロジーは、以後の映画づくりに多大な影響力を揮って行ったとのことです。

そしてこの技術は彼自身の過去作品のアップデートにも使用されます。97年の『特別編』制作に代表されるように、SWはその時々の最新技術によって細かい修正が施されて行ったのでした。いやむしろ修正以前のオリジナルを鑑賞する方法はほぼ無いというのが実情のようです。ルーカスは技術力に応じてかつての作品群をアップデートすることで、この「古くて新しい映画」を時代性という鎖から解き放とうとしたのではないか・・・。著者はルーカスの「野望」を推測します。

ルーカスはたびたび旧三部作が技術的制約のせいで「想像したビジョンを完全に映像化できなかった」と言っているが、デジタル技術はそれを可能にしたばかりか、旧作を「想像したビジョン」へと接近させることすらできるようになった―そのための技術革新をルーカス自身が牽引していた。

 しかし・・・。

ルーカスフィルムがディズニーの手に渡ったことで『スター・ウォーズ』のとどまるところを知らない改変には終止符が打たれたように思える。

「魔女狩り」の時代

熱狂的ファンたちの批判に晒されたディズニー版SW。しかしそれは単にディズニー側のSWへの無理解や安易な収益回収への志向にのみ帰されるべき問題なのでしょうか。いえ、そこには新旧三部作を経てもはや宗教と化したSWという映画、否「聖典」への「信仰」と「正統性」を巡る厄介な問題の発露であるのでした。著者はそれを「溝を埋めなくてはいけない不幸」と形容しています。

(中略)ジョージ・ルーカスという創造主が君臨していたうちはまだ良かった。ルーカス以上に『スター・ウォーズ』の正統性を担保できる人間は他にいないため、プリクエルの内容が気に入らないファンはいても、それを異端で『スター・ウォーズ』の教義を乱すものだと考える者はいなかった(中略)

『ローグ・ワン』の監督ギャレス・エドワーズは自身が熱狂的な「ファンボーイ」であることを、『ハン・ソロ』の監督ジョナサン・カスダンはSWシリーズの脚本家ローレンス・カスダンの息子であることを通じて自らの「信仰心」をアピールしています。しかし本来そのようなアピールは不必要なものであるはずです。なぜなら、

(中略)『スター・ウォーズ』の大ファンであることや、作品世界に精通していることは、その人物が脚本家として、あるいは映画製作者として優れているかどうかと関係ないからだ。

 まったくその通り。

『スター・トレック』や『スター・ウォーズ』のようなフランチャイズには、「歴史」や設定の整合性をチェックする専門の役職がいるのが普通であり、作品世界に精通する彼らが適切なアドバイスをできれば、それで事足りるはずである。

またしておその通り。それならばなぜ彼らは自らのSW愛をこんなにもアピールするのでしょう。それはSWという映画が既に「万人に愛される」ということを越えて「宗教」と化し、その宗教および聖性を帯びた各キャラクターや設定に関する凄まじい知識量を誇り、それらを以てなにが正統でありなにが異端であるかを厳しく問い詰める異端審問官、すなわちうるさ型のファンたちが存在するからです。

インターネットが可能にした地球規模の巨大なファンダムに異端の烙印を押されたら、炎上どころか火炙りにされてしまう。

創造者でないでないものが宗教を増築する際に避けては通れぬこの問題の一例として挙げられるのはリドリー・スコットの『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』における表現。『エイリアン』当時ではブラウン管であったモニタ類が、過去の物語であるはずの『プロメテウス』では現代的な平面ディスプレイへと変貌しています。著者はそれを創造主であるがゆえに可能であった荒業であると評します。如何にそのイメージや整合性が揺らごうと、創造主または教祖の決定であるならば基本的に信者は受け容れるしかないのです。

一方でディズニー移行後、つまりルーカス去りしあとのSWは「SWらしさ」という呪縛を常に意識し続けねばならないのでした。そしてそれは常に新しきものを求め続けてきたルーカスとは真逆の、内向きのスタンスに他ならないのでした。多くのファンサービス(=信仰告白)に充ちた『ローグ・ワン』や『ハン・ソロ』は長いスパンを開けた「続編づくり」に他ならず、シークエル三部作は帝国の打倒とダース・ヴェイダーの回心というSW物語の骨子を破壊した割には結局過去作のテーマの焼き直しに過ぎないものとなり、そこにルーカスの先進性は見られません。しかし「教祖」の手を離れた「宗教」から今までとはまったく違う「新たなる教義」が生まれ出たとして、私たち信者はそれをそれとして受け容れ得たでしょうか?

スカイウォーカー一族をめぐる物語は1983年に完結しているのだから、今後はバリエーション豊かな戦記物を生み出す土壌としての『スター・ウォーズ』という考え方に移行するしか方法はないように思われる(『ローグ・ワン』はそういうコンセプトで作られた)。

そう、ルーカスという教祖を離れてSWが躍進を遂げるには彼の指紋が少しでも付着していない個所を攻めるしかないのでしょう。しかし少なくとも映画作品に関してはディズニー版SWがその道を歩まなかったのは明白。著者は「シークェルはトリロジーの墓暴き」なる過激な文言でそれを訴えるのでした。

(中略)ディズニーは新たな『スター・ウォーズ』の「正統性」を担保するために、旧三部作のヒーローたちを新シリーズに再び呼びもどさなくては「ならなかった」。終わったはずの「物語」は墓場から掘り起こされた。荼毘に付されたベイダーのマスクが『フォースの覚醒』に引っ張り出されたように(中略)。

オマケ1:あなたはどれ? マニア心理の移り変わり

本書で笑ってしまったのは、著者がマニア心理の移り変わりを如実に物語るものとして挙げた「キューブラー=ロス・モデル」。そう、有名な「死を目前にした人が辿る感情のプロセス」です。

第一段階「否定」=「こんなのSWじゃないぞ!」
第二段階「怒り」=「なんでこんなSWをつくってくれたんだ!」
第三段階「取引」=「『ディレクターズカット』かなにかで修正されないだろうか…」
第四段階「抑鬱」=「とはいえこれがヒットしているのだから、もう何を言っても無駄だ…」
第五段階「受容」=「どうあがいてもこれがSW神話の一部になってしまったことは変えようがない事実なんだ…」

さぁ、あなたにとって各作品はどの段階でしょうか?

オマケ2:新たなるSWの幻影

一般的にはSF映画にカテゴライズされるSW。しかし多くのファンは本作をファンタジーと定義するかもしれません。何によって? フォースという不可思議な概念によって。そしてこのフォースなる謎めいたパワーは新三部作で更なる深みが与えられるはずでした。何によって? ミディ=クロリアンという概念によって。

本書によればフォースという概念の祖形は1971年の「THX‐1138」にカットされたシーンに現れており、1974年時点のSWラフ稿に登場した「フォース・オブ・アザーズ(他者の力)」という概念がSWにおけるフォースのデビューであるようです。

超能力の類ではなく汎神論やエーテル論を下敷きとした架空のエネルギー・フィールド(力場)であるフォースは「質感を感じさせ得るリアリティ」を備えたまさに疑似宗教であり、旧三部作の時点ではライトサイド(光明面)とダークサイド(暗黒面)が存在し、力を求める邪悪な心が選ぶ安易な道がダークサイドであると定義されていました。

しかし新三部作力を求めたアナキン・スカイウォーカーの実像が掘り下げられたことで暗黒面に至る道が再定義されました。暗黒面への道は邪悪からではなく執着心から発する。母を失うことへの恐れ、母を奪われたことへの怒り、今また愛する妻と子を失うのではないかという恐れ、絶対にそんなことをさせるものかと力を渇望するアナキン。映画作品を通しての説得力は措くとして、力を求める心は必ずしも邪悪な心からのみ発するのではないことが描かれました。恐れは怒り、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へつながるというヨーダの言葉通り、充分に同情の余地のある人間らしさとも換言できる弱さこそが暗黒面へ至る道の根元であると新三部作は訴えているようです。

閑話休題、そんな暗黒面への再定義を行った新三部作はミディ=クロリアンによってフォースという概念そのものをも再定義しようと試みました。そしてこの賛否両論を呼び起こした新概念は、SWをファンタジーから文字通りサイエンス・フィクションに転換させる可能性を秘めたものでもあったのでした。

「フォースはある種の感覚であり、命と関わるものだ。いかなる武器でもない。(中略)生まれながらに、人間より強いフォースを感知する力が強いクリーチャーがいると言われる。彼らの頭脳は人間とは異なり、彼らの細胞にはミディ=クロリアンが多い」

驚くべきことに上記の発言は1977年時点でルーカスが関係者に語ったSW世界観の説明であり、この時点で既にミディ=クロリアンの概念が存在していたことがわかります。また、

「新しいトリロジーは微生物の世界を描くものになるはずだった。我々とは異なる活動をする生き物の世界だ。それが『ウィルズ』だ」

「そして銀河を真の意味でコントロールしているのは、彼ら『ウィルズ』なんだ。『フォース』は彼らの食物だ」

「すべての生物は『ウィルズ』を運ぶ乗り物のようなものだ」

という一連の発言に、著者は76年に発表されて物議を醸したリチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の影響を指摘します。もしこの方向性が色濃く反映されていれば、SWは現状よりもよりSF映画の趣の強い作品となっていたことでしょう。SW世界の登場人物たちという個体の思惑や言動を超越して存在するミディ=クロリアンという「利己的な遺伝子」とそれらが媒介するフォースという概念が、現行のものとは全く趣を異にする「教義」を創り出し得たのかもしれません。しかしフォースを神秘的な、マジカルな力と捉えることに馴染んだファンたちからの不評を前に、ルーカスはジェダイよろしく自らのビジョンを優先させたいという「執着心」を捨てたということです。もしもルーカスがシスよろしく自らの執着心を満足させる道を選んでいたら、いったい新三部作は、否SWという物語はどのようなものになっていたのでしょう。

ちなみに「ウィルズ」とはマニアには説明の要もないWhills、かつて「ホイルス」と訳された言葉であります。

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