【横断考察】『ヒロインの旅』(序文)×『スター・ウォーズ』:”我らの道”と、共に在れ

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【英雄と女傑の”我らの道”】

今回取り上げるのはモーリーン・マードック著『ヒロインの旅』。

正確にはその序章にすぎない箇所ですが、本書の内容が凝縮された一文から読み取れる「男性社会に押しひしがれた女性性の回復」というテーマを、スター・ウォーズ物語に当てはめながら比較検討してみたいとおもいます。

スター・ウォーズと「女性性の回復」というのはイメージが結びつかないかもしれません。レイアやパドメ、レイを始め、スター・ウォーズには印象的な女性キャラが幾人も登場するものの、基本的にスター・ウォーズは男性キャラの活躍が多くを占める物語です。

しかし、本書で展開する「女性性」という言葉は、そのままジェンダーとしての「女性」だけを意味しなません。もちろん著者が本書を著したそもそもの狙いは、男性主体社会におけるジェンダーとしての女性性の危機と克服を訴えることにあったでしょう。

それでも、著者の提唱する「ヒロインの旅路」は「女性の旅路」であることと併せて、性別を超えた「追いやられた者の旅路」としても読み解けるものです。本書で展開される「男性性」と「女性性」という対立軸に向けられた目、そしてその打開を模索する営為は、そのまま別の言葉に置き換えても理解可能なものであると考えます。

【英雄の旅路と女傑の空虚】

スター・ウォーズが1949年に刊行されたジョゼフ・キャンベルの著作『千の顔を持つ英雄』を下敷きにしていることは有名です。この著作は、古今東西の神話を比較総合し、文化や時代を超えて通用する「成長のメタファー」を抽出したものであり、今日に至るまで「作劇の基礎」として多くの創作論に影響を与えてきました。

キャンベルのいう「英雄」とは、単に武勇に秀でた存在ではなく「成熟した人間」の比喩と言えるでしょう。未熟な子どもが、さまざまな試練を経て父性的権威と対峙し、やがてそれと和解することで「一人前の社会の構成員」へと成長していく。その過程を図式化したものが、いわゆる「英雄の旅路」です。

著者マードッグは、そんな古典的名著の著者が発した言葉への衝撃から、本書で展開する考察を組み立てて行ったと言えるようです。心理療法家として活動していた彼女は、主に三十代から五十代にかけての女性たちの悩みを聞き続けているうち、ある共通点を見出しました。それは、彼女らが揃って社会の成功者であるにもかかわらず、大きな空虚を抱えていたということです。

「英雄の旅路」に代表される様々な試練を戦い抜き、「女傑」と言うべき強い存在となったはずの彼女たちがなぜ? 女性は「英雄の旅路」とどう向き合うべきなのか? 疑問を呈する著者にキャンベルはこう答えたといいます。

するとキャンベル氏は、そもそも女に旅は不要だといった。「神話の女性はただ『存在』するだけです。女性は人々が目指す行き先、たどり着く場所だ。自分でその価値に気づけば迷わずに済みます」

(本書p,13)

キャンベルのジェンダー観がどのようなものであるか、不勉強ながら私は知りません。

しかしこの逸話は、単に女性蔑視とそれに憤る女性という単純な図式ではなく、「英雄の旅路」に代表される男性性、つまり男性的世界観と、それに追いやられ続けてきた女性性、つまり女性的世界観との対立として捉えることができるのではないでしょうか。

人類は切磋琢磨の努力の末に今に見る繁栄を築き上げました。しかし、繁栄の影にはたいてい見えざる犠牲者が踏みつけにされているものです。社会を支える「英雄」として日々の戦いに明け暮れる男たちの影には、常に「母」や「妻」として尽くす女性たちの献身があったことは間違いありません。しかし彼女らの功績が評価されることはなく、その歴史を通じて、女性は常に一段低い劣った存在として社会から…否、男たちから評価されてきたのではないでしょうか。

娘には母親が被害者に見える。自由がない女、殉教者のイメージだ。それはひどく曖昧で、どこまでが母親で、どこからが自分かわからない。だから娘は断腸の思いでメスをふるうのだ。母と自分を切り離すために。

(本書p,28)

本書第一章で引用されるアメリカの女性詩人アドリエンヌ・リッチの言葉が示すように、そんな不遇の「母」の姿を見てきた「娘」たちの多くは発奮し、社会的にマイナスとされる女性性を自ら捨て去り、男性社会で戦う「女傑」となるべく起つ決意をします。「英雄の旅路」を潜り抜けて逞しく成長した「娘」たちは、坂の上の雲にそびえる「父」に憧れながら、坂のふもとにうずくまっているかのような「母」の姿への侮蔑とともに我が道を往き、やがて雲上の「父」に認められることで「成功者」の仲間入りをするのです。

まさに立志伝中の人と言うべきスーパーウーマンの誕生と言えますが、著者にその苦しい胸の裡を打ち明けていたのは、まさにこれら逞しき「女傑」たちに他ならなかったのです。いったい成功者となったはずの彼女らは、何に思い悩んでいたのでしょうか。

【捨てられた女神】

その根本は、自らの本質に背いてまで手に入れた成功に価値を見いだせなかった殻なのかもしれません。「モノ」から「コト」に至るまで、「欲しくもないものを欲しいと思い込まされる」というのは現代社会においてよくあることでしょう。その元凶は共同体が長く培ってきた宗教的伝統や思想的伝統といった、その人が生きる社会に充満する「空気」ではないでしょうか。

なにも、そこに属す個々人が特定の宗教や思想を奉じている必要はないのです。煙草の副流煙よろしく、周囲の人々が吐いた煙を吸い込むことで発ガン性物質がその人の体内に蓄積され、非喫煙者であるにもかかわらず肺がんを始めとする肺疾患に冒されることがあるように、過去の世代を生きた人々が吐き出した「副流煙」の蓄積は、知らず知らずのうちにその人の頭脳を冒し、心を冒して行きます。成功するためには逞しく、決断力に富む男たちのようにならねばならない。ひ弱で優柔不断な女のままでいてはだめだ…。そう考えた女性たちは、往々にして「女性性」に意図的に背を向けるのではないでしょうか。

キャンベルが女性蔑視的思想の持ち主だから、「英雄の旅路」から女性及び女性性が排除されているのではないでしょう。そういう言い方をするならば、文明社会を築き始めた人類の歴史そのものが女性蔑視的思想の持ち主だから、「英雄の旅路」から女性及び女性性が排除されているのだとは言えないでしょうか。

よって「英雄たち」によって維持運営されている共同体で「一人前の英雄」として生きて行くためには、女性性を捨て去ることで獲得した男性性を心に宿す必要があるのです。しかし、それは自己実現のために必要な「犠牲」であるとともに、自分自身への影響を無視することを許されない「自己否定」でもあります。しかし自己否定に、とくにこのような無理に基づく自己否定に明るい未来はないでしょう。それがもたらす”ゆがみ”はストレスとなって、自らの頭と心をごまかし得たとしても、やがて身体に現れます。

【「気づき」から始まる旅路】

本書序文では、彼女自身もこのような「女傑」の一人であった著者が「ヒロインの旅路」に思いを馳せるきっかけとなった「肉体の痛み」が綴られます。彼女はある日、唐突に激しい背中の痛みに襲われたのです。

 その後三日間痛くて動けず、リビングの床に腹這いになって泣いた。頑固に閉じていた心がゆるみ、ただ混乱した。この時の涙が「ヒロインの旅」のイメージをくれた。それは時計回りで、ぐるぐる渦を巻いている。渦の始まりは「女は受け身でずるくて怒っているから嫌だ」という気持ち。ヒロインはそこから「英雄の旅」にダイブする。仲間を作り、男と同じように社会で身を立てようとする。だが、その先に心がすさむ時期があり、「ダーク・フェミニン(女性の闇の側面)」と直面する。

 闇に堕ちたヒロインは癒しを求める。この本で「母/娘の分離」と私が繰り返し述べる「女性の深い傷」があるからだ。闇から光への帰り道で自分の本質を見直し、過去の生き方に統合する。

(本書p,15)

このようなきっかけと思考を基に編み出された「ヒロインの旅路」に特徴的なのは「自らの気づき」から始まり「導き手」を持たないという点ではないでしょうか。少なくとも明確なメンターを欠いた、非常に内省的な旅とならざるを得ないのではないでしょうか。苦衷にあった当時の著者は日記にこう綴っていたようです。

 「これは未知の領域だ。暗くて湿っぽく、血まみれで孤独。誰もそばにいないし、慰めも助けもない。傷は剥き出しだ。ばらばらになった自分のつなぎ合わせ方がわからない。こんな難行は初めてだ。何かに勝とうとするのではなく、自分を見つめることなんて。母なるものを探して裸で歩く。まだ生まれ出ていない私を探す。この闇のどこかにいるはずだ。信じることをやめてしまったものたちだから、向こうから姿を見せてはくれない。私が自分で捨てた宝物だから、私が掘り出す以外にない。この旅にやさしい妖精などいない。急いで光の中に引きずり出してはだめだ。母なる者との出会いを急いではならない。私は辛抱強く、勇気を出して闇を探り続ける」。

(本書p,20)

「英雄の旅路」は「冒険への召命」という言葉に代表されるように外的要因から始まり、多くは「導き手」を持っています。それは「英雄の旅路」の本質は「社会への適合」を意味するものであり、それならば、外的要因による”いざない”や強制に始まるのは当然であり、「導き手」に不足しないのも当然でしょう。

しかし「ヒロインの旅路」はそのような「社会」に対する「不適合の自覚」から始まるのです。「ヒロインの旅路」とは社会への適応の虚しさ…とまでは言わなくとも、少なからず疑問を抱いた者たちが、男女の別なく歩まざるを得ない「背教者の旅路」と言えるのではないでしょうか。

【”英雄”と”女神”は並び立つ】

しかしそれは単に「社会」に背き、それを否定し、それに唾を吐く反社会的思考や態度を意味するものではありません。「社会」に適応するために”信じることをやめてしまったものたち”を再び信じ、”自分で捨てた宝物”を再び掘り出し、自らが捨て去った「本質」を回復することで、再び社会と和解することをゴール地点とするからです。

一見「男性社会に対するアンチテーゼ」と捉えられる「ヒロインの旅路」ですが、両者は決して対立するものではないでしょう。少なくとも著者が思い描くその完成形は、両者の生き方の「統合」にあるのです。

 ヒロインには強靭な精神が必要だ。じっくり内面を整え、精妙なバランスをとらねばならないのだから。女らしさを捨てて社会に出ても、その先には答えも終着点もない。そこまでの努力は無駄ではないが、旅は完成していない。ヒロインは疑問を感じ、さらに大きな旅をする。人に尽くし、自分のことも大事にできれば、男女両性の特質がヒロインの中で融合するだろう。両極の融合と共存こそ、生きるもの全てのバランスに必要なのだ。

(本書p,23)

この言葉は、ともに「背教者の道」を説く坂口安吾の随筆『続堕落論』のこの一節を思い起こさせます。

しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかしてその反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。

(角川文庫刊 坂口安吾『堕落論』 p,113)

この文章における「政治」や「人間の制度」とは「英雄の旅路的男性性、及び社会の在り方」を意味し、「文学」とは「ヒロインの旅路的女性性、及び社会の在り方」を意味すると考えても理解可能ではないでしょうか。

「ヒロインの旅路」とは、決して「英雄の旅路」を否定する生き方ではないのです。むしろ「英雄の旅路」の批判者として常にそば近くを伴走し、そこからの脱落者として追いやられた人々や、逸脱者として離反した人々を吸収し、彼ら彼女らに新たなる知見を授けることで、人々が真の意味での脱落者や逸脱者となることを防ぐための補完的存在と言えるのではないでしょうか。

両者の考え方は一見対立的に見えますが、それは「正道と邪道」や「善と悪」のような絶対的対立を意味しません。「光と闇」のような、時に互いが互いを必要とし合う類の相互補完的な対立関係ではないでしょうか。

しかし「光と闇」の対立が、往々にして恣意的な対立関係に落とし込まれて理解されてしまうのはスター・ウォーズ読者には自明の事柄でしょう。しかし、光なきところでは生命が存続できず、闇なきところでは生命が休息できないように、この両者は本来「共に在る」べき兄弟姉妹なのです。私たちスター・ウォーズ読者は、この生ける実例を物語屈指の「背教者」アナキン・スカイウォーカーの生涯に見出すことができるでしょう

【アナキン・スカイウォーカーの旅路】

彼は生涯ははじめ、「英雄の旅路」の主人公に相応しく「冒険への召命」に応じて自ら冒険へと踏み出して行きます。そして多くの試練を潜り抜け『シスの復讐』で語られるように「英雄」となって行きます。

しかし、それは多分に自らの「本質」から目を背けた結果手にした栄誉でもありました。彼の本質とは、かつてクワイ=ガンが称え、母シミが誇りとした「人を愛する」心、そして「利他主義」です。

You should be very proud of your son. He gives without any thought of reward.

(誇るべきお子さんですよ。何の見返りもなく我々を助けてくれる。)

Well,he knows nothing of greed.

(あの子には欲というものがないんです)

スター・ウォーズ エピソード1「ファントム・メナス」劇中台詞

利他主義を奉じること人後に落ちないジェダイですが、彼らは同時に「利他主義」と「愛」とを峻別する組織でもありました。

もちろん正確には「特定の人や物に対する執着」、そして「それを失うことへの恐怖に基づく暴走」という意味での「愛の禁止」。つまり真の意味では「利己主義」となる「妄執」を呼び込む「愛」を避けるという意味であり、真の意味での「無私の利他主義」の持ち主たることを標榜するという意味では、ジェダイたちもまた本来「愛」を旨とする人々ではありました。

しかし人間がそのような境地を目指すのは、もはや生きながらの「テオーシス(神化)」または「成仏」に等しいものでしょう。そして「神」や「仏」の境地に達することを目的とする人々の集団の中に、そもそもジェダイに「解放者」の面影を見、「戻ってきて母さんを自由にするからね」と言い残して故郷を発っていったアナキンが、順応できるはずはなかったのでした。

ジェダイが奉じる「愛」と、アナキンが奉じる「愛」とは、その用いる言葉は同じでも、その意味するところは真逆と言ってもよいほどに違っていたと言えるでしょう。

「愛」と「執着」は幼少期だからこそ自然と並立できたのであり、人間は成長とともにそのバランスを崩して行く
ジェダイたちの目指したものは生きながらのテオーシスに等しく、それは修道院的生活と切り離せないものだった

ともあれ、そんな組織の中で頭角を現して強力なジェダイとなり、クローン戦争の将軍となって多くの戦線で多くの勝利を収めたアナキンの前半生が、無駄なものであったのでは決してありません。

アナキンは、自らの本質・本性と異なる男性主義社会を前に、自らの本質・本性である女性性を捨てて飛び込み、「男たちの一員」となって戦うことで功成り名遂げた「女傑たち」と同じく、自らの本質・本性と異なるジェダイ騎士団を前に、自らの本質・本性である「我執をともなう愛」を押し隠しながら、ジェダイたちの一員となって戦うことで功成り名遂げ、その過程で多くの人々の支えとなり、その命を救ったのです。

しかし、「女傑」たる著者が突如襲われた激しい身体の痛みと同じものが、やがてアナキンの心をも蝕んで行きます。

 「本当の私って何?」と感じたら旅が始まる。年齢に関わらず「これまでの自分」に違和感を感じたときだ。

(p,16)

「冒険への召命」によって始まったアナキンの「英雄の旅路」ですが、もう一つの「旅の始まり」へと続く「脇道」は、常にそのそばに開かれていたのではないでしょうか。しかし「ヒロインの旅路」は「気づき」からしか始まりません。そこへといざなってくれる「召命」は存在せず、踏み出したあとの「導き手」も存在しない。

アナキンは自らの意志と衝動でもう一つの道へと踏み出す、否、踏み外すしかなかったのです。そして、かつて導き手たることを約束したダース・シディアスはまったく信用できる存在ではありませんでした。アナキンは「英雄の旅路」を一度自らの気づきと意志で「踏み外し」、”剥き出しの傷”と”ばらばらになった自分”を持て余しながら、”まだ生まれていない私”を捜して、”闇を探り続ける”ことしかなかったのです。本書で「母/娘の分離」と呼ばれる「女性の深い傷」、つまり「本質・本性との分離」を意味する「背教者の深い傷」は、自らの意志と自らの足で埋めて行くしかないのです。

導き手たることを約束したシディアスの言葉は彼を取り込む詭弁にすぎなかった
アナキンはベイダーの中でひたすら自分の道を探り続ける必要があった

著者は、自身と同じく心理療法家にして作家であるノア・ホールの言葉を本書冒頭に引用しています。

女の心の穴は男には埋められない。母との一体感を思い出し、女が自ら埋めるべきである。

(p,12)

アナキンの心の穴は、オビ=ワンにもパルパティーンにもパドメにも、ルークにさえも埋められないものだったでしょう。「母」、つまり「かつての自分の本質」との”一体感”、つまりかつての自分がなにより大切にしていた「それが我執であろうと妄執であろうと目の前にいる他者を愛する」という自らの「愛し方」を思い出し、アナキンが自ら埋めるしかなかったものなのです。

アナキンの「ヒロインの旅路」にもまた、明確な導き手は存在しませんでした。

結果的には導き手の役割を果たした息子ルークでさえ、ただ父が自分の心に向き合うことだけを求め、父をどこへ導けば良いかなど知る由もなかったのです。

こうして自身の「母」、つまり自身の本質であった「他者を愛する」という本質との和解を成し遂げた「娘」たるアナキンは、それによってライトサイドに返ったのです。自らの「女性性」を、つまり「自分らしさ」を回復したことで「男性性」をも、つまり彼がかつて志した「ジェダイ性」をも回復し、両者の統合―つまり人間としての感情の通った―健全な意味でダークサイドを恐れることのない―つまり己を偽ることない―「バランス」を獲得したジェダイとなったと言えるのではないでしょうか。

多くの意味で”英雄”となったアナキンは多くの人々を救う
しかしその成長は規範の前に自らの心を偽り続けた結果でもあった
闇にまみれた後半生の末に、アナキンは規範から外れた”自分の心”を取り戻す

以上が、『ヒロインの旅路』の序文を読んだときに、私の頭に浮かんだ思考の整理です。

英雄の物語だけでは語りきれない成熟がある。スター・ウォーズという物語は、そのことをアナキン・スカイウォーカーという存在を通して私たちに示しているように思えてなりません。

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