【横断考察】『ドラキュラ』×『スター・ウォーズ』:「怪物」と「声なき者たち」の物語

他作品
記事内に広告が含まれています。

※この記事はYouTubeでもご覧いただけます。

今回のテキストとするのはNHKの番組『100分 de 名著』2025年10月号『ブラム・ストーカー ドラキュラ』。本書を通して、19世紀の古典文学『ドラキュラ』と、20世紀の古典映画『スター・ウォーズ』との関連に思いを馳せてみたいと思います。

【ドラキュラとシス:「怪物」と「声なき者たち」】

『ドラキュラ』とスター・ウォーズと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、かつてドラキュラ伯爵を演じて一世を風靡し、スター・ウォーズではその名も”ドゥークー伯爵”を演じて強い印象を残したクリストファー・リーの存在でしょう。しかし、もちろんそのような雑学的符合によって両作品を引き比べようというのではありません。

『ドラキュラ』という物語は一見か弱い女性たちを脅かす恐ろしい吸血鬼と、それに立ち向かう勇敢な男たちの対決という典型的な「「二項対立」を描く物語のように見えながら、そのじつ「二項対立の克服」を訴える物語であるという、著者の主張にいたく共鳴したからです。

それはまさに「正義の反乱軍」と「悪の帝国軍」「光を奉じるジェダイ」と「闇に染まったシス」の対決という、一見わかりやすい「勧善懲悪」の物語でありながら、そのじつ「バランス」を至上とする物語であることで単純な善悪二元論を否定する仕組みを内包するスター・ウォーズという物語にも相通ずるものと言えるでしょう。

本書において展開される「人間と怪物」という対立軸、そして「怪物という名の”他者”」に向けられた人間たちの視線は、ほぼそのままスターウォーズ物語を読み解く恰好の補助線と成り得るのです。

小説『ドラキュラ』は、いま必読の書なのです。いまこそ私たちはこの作品を読まなければならない。なぜなら、現代の私たちが陥りがちな二元論や二項対立を乗り越えようという目的を持って書かれた物語だからです。

私たちがパッと思い浮かべる『ドラキュラ』は、まさに二項対立の典型なのかもしれません。(略)しかしそう見えても、実は怪物と人間、善と悪、強者と弱者といった、わかりやすい振り分けを否定する仕掛けが張り巡らされています。

本書p,4~p,5

『ドラキュラ』はエンターテイメント作品としても楽しめる、無類に面白い恐怖小説です。しかし今回は、そこから一歩踏み込んで、なぜストーカーはこの小説を書いたのか、なぜこのようなキャラクターを造形したのか、なぜこのスタイルで小説を構成したのかといった、作者の意図に光を当てながら作品を呼んでいきたいと思っています。

そうすることで、なぜこの小説が百年以上も読み継がれ、さまざまなアダプテーション(翻案)に発展しているのか、現代の私たちにはどのような声として届き得るのかが見えてくるのではないでしょうか。

本書p,9

スター・ウォーズもまた、百年とは行かずともすでに五十年近くに渡って読み継がれ、賛否両論毀誉褒貶に晒されつつもさまざまなメディアにおいて様々なアダプテーションが試みられている。この光と闇の対立、そして融和の物語が現代の私たちにはどのような「声」として届き得るのでしょうか。

100年以上映画を中心に無数の翻案が施されている『ドラキュラ』
50年近く、無数のメディアで翻案されているスター・ウォーズ

【ジェダイの原罪】

本書序文でこの物語を読み解く補助線として紹介されるのは「ネガティブ・ケイパビリティ」(消極的受容性)という考え方。

他者を尊重して寄り添いながらも決して理解したつもりにはならず、わからないものはわからないままに留保し続けることを重視するという、個人的にも社会的にも非常な「体力」を要する態度です。

著者は、このややもすれば古典的な「バケモノ退治」としてイメージされる物語は、むしろ自らと異なるなにものかを安易に「バケモノ」と認識することを非とするネガティブ・ケイパビリティを養う物語として読み解けるのだと語ります。

そもそも『ドラキュラ』のみならず、本作が属す「ゴシック小説」というジャンルそのものが、あらゆる時代にあって”二項対立の一項”、つまり「異物」や「敵」、「怪物」として”追いやられた人々”の物語であると訴えます。そしてそのような存在の象徴として、怪物ドラキュラは屹立しているのだ、と。

略)そこには時代に埋もれていく声が小説に書き残されているからなのです。

 ゴシック小説には、その時代の弱者、―声を奪われている存在―が誰なのかがわかるように描かれています。それは女性であったり、同性愛者であったり、障害者であったり、宗教マイノリティだったりします。そうした人たちの声と存在が、さまざまな形で刻まれているのです。

本書p,8~9

スター・ウォーズもまた「その時代の弱者たち」が大きな存在感と共に描かれます。帝国の圧政に立ち向かう”反乱者たち”がその代表ですが、そもそも”圧制者たち”の大半もまた弱者に過ぎないと言えるでしょう。弱者は弱者であるからこそ、そこから抜け出すためにがむしゃらに力と加害性に憧れ、力を振りかざす加害者に寄り添うことで、”自分だけは”弱い被害者の立場から抜け出そうとするのではないでしょうか。

腐敗した共和国に絶望して独立星系連合を支持した人々、安全と安定を求めて自ら自由を投げ出し、帝国が掲げる鉄の規律に自らの安住の地を見出した帝国支持者、あるいは幼少期からの洗脳教育によってたったひとつのモラルとしてファースト・オーダーへの盲従を余儀なくされた人々に至るまで、物語に登場する「声なき弱者たち」は枚挙にいとまがありません。そしてその中でもっとも「怪物」として恐れられ、忌み嫌われ、そして魅力を放つのがシスの暗黒卿ではないでしょうか。

フォースのライトサイドを奉じるジェダイたちを英雄として描く物語の構造上、スター・ウォーズという作品世界において問答無用の「悪役」として登場するシスですが、それでもプリクエル以降の映画作品中に仄見える彼らの生き方、そして各種スピンオフで重層的に展開する彼らの生き方は、決して単純な「悪」として一刀両断できるものではありません。スター・ウォーズの「悪役」たちが歩んだシスの道もまた、良くも悪くも情念あふれる存在である人間でありながら、フォースという大いなる力と向き合わざるを得なかった人々が導き出した、「切実」の一つなのではないでしょうか。

もちろん、上記の引用文に挙げられる女性や同性愛者、障害者や宗教マイノリティーといった人々はあくまで”少数弱者”であって、”少数強者”として自ら人々を傷つけ社会の支配を目論むシスとは大きく趣を異にします。しかし著者は『ドラキュラ』という物語の特徴として、「弱者と強者」といった対立軸が時に入れ替わり立ち替わりしながら進んで行く両義性を指摘しています。シスという存在もまた、破壊と支配を旨とする「加害者」である一方、「追いやられた少数者」としての一面もまた、しっかりと捉え、考えられるべき側面ではないでしょうか。

私はシス卿の誕生を招いた「百年の闇」のきっかけとなったとされる、暗黒面を奉じるジェダイの追放こそがジェダイが背負う「原罪」であると考えます。もしも彼らがこの異端者を追いやることなく本書流の「ネガティブ・ケイパビリティ」を以て身内にとどめ、異分子を抱え続ける弊害や害悪に耐えながらも粘り強い対話を積み重ねていれば、もしかすると両者の歴史は相当に大きく異なり得たのではないでしょうか。

シスが掲げる「シス・コード」の内容は、激越である以上に痛ましさを感じさせるものと思えます。あれを一読して感ずるのは、野放図な情動の解放に対する称揚以上に「ジェダイ・コード」に対する激しい反発ではないでしょうか。

シスは自らが追放され、追いやられた存在であるという「屈辱」を自らのアイデンティティに据えてしまったことで、必要以上に破壊と支配に対する情動を昂らせ、またジェダイ側は自らが過去に決断した「排除」の記憶に対する「罪悪感」から、過剰なまでに、かつて理不尽な仕打ちをした「闇」を忌み遠ざけることで、自らバランスを欠きやすい脆弱な体質を形づくっていったとは考えられないでしょうか。そしてそれを糊塗するために教条主義に陥り、結果として時とともに非人間的な組織へと変貌していったのではないでしょうか。

本来”共に在る”はずの「兄弟」が、それを拒否することを選んだ「百年の闇」は、百年どころか千年万年、おそらくそれ以上に及ぶ闇を両者に投げかけたとは言えないでしょうか。スター・ウォーズもまた、著者が『ドラキュラ』を始めとするゴシック小説のテーマの一つとして指摘したものと同じく、「声を奪われた存在」と「声を奪った存在」との相克の物語として読むことが可能なのかもしれません。

恐ろしいモンスターとして描かれる一方、「追いやられた存在」の一面も併せ持つドラキュラ(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・リー)
恐ろしい悪役として描かれる一方、「追いやられた過去」も併せ持つシスの暗黒卿

【怪物の苗床】

序文に続く『第一回、ドラキュラの誕生』では、物語の大まかなあらすじと並んで、十九世紀アイルランドに生きた作者ブラム・ストーカーの社会的、個人的属性。彼が生きた社会の様相、そしてなぜ東欧伝承の産物ヴァンパイアが西欧生まれ西欧育ちのストーカーによって物語の主軸に据えられたのか、といった物語成立の背景が語られます。

そこに通底するのは、いつの世もその装いを変えながら世界を支配し続けている「二項対立の土壌」。つまり自らと性質や志を同じくしない存在を「他者」として白眼視し、ひいては「怪物」として敵視する「差別の土壌」なのです。

もっとも印象的なのは「神による差別」から「知による差別」へと移行した当時の世界観です。当時ヨーロッパ社会全体は比類ない世俗化の時代を迎えました。ダーウィンによる『進化論』の発表や「精神医療」への注目に代表される科学や学問の躍進が、凋落した宗教勢力に代わって「世界を読み解く補助線」として人々の心を魅了したのでした。

しかしそれは人類が迷妄から解放されたことを意味しません。単に迷妄の種類が変わったに過ぎないのなかったのです。人類が進化して誕生したのなら退化もし得ると考えた人々は、自分たちが理解できない考えや傾向を持つ人々を「遺伝的に退化した劣等者」として、「学問的な差別」の対象としたのでした。

そんな時代にあって同性愛者であったと伝えられるストーカーは、自身と同じ性的傾向を持つ盟友オスカー・ワイルドがスター作家から一転「退化した犯罪者」として断罪されて行くのを横目で見ながら『ドラキュラ』を書き綴ったといいます。ドラキュラという忌むべきモンスターは、誰よりも作者である彼自身が”モンスター”として断罪されかねない社会で息を潜めながら生み出したものだということがわかります。

マイノリティ性を持つ人があたかもディジェネレーションのプロセスを経て退行していると思わせるような乱暴で暴力的な批判が、この時代にはあったのです。

本書p,27

このような社会に生きたストーカーの中で「強者と弱者」「健常者と異常者」「文明と未開」といった二項対立、その象徴としての「人間と怪物」というテーマへの注視が嵩じていったであろうことは想像に難くないと思わせられます。

【怪物と解放者】

「第二回、排除される女性たち」では、スターウォーズとも共通する本作の多視点的、重層的な物語構成が注目されます。『ドラキュラ』という物語は、主に複数の登場人物たちが記した手紙や日記の集合として形づくられ、主要人物から端役に至るまで、様々な人々の視点が、それぞれの価値観を通して語られることで物語が推し進められて行くのです。

そして著者は、本作がそのような構造で組み立てられた真意の一つを「抑圧から脱しようとする女性たち」の存在を描き出すことにあると読み解きます。当時「新しい女」(New Woman)と呼ばれて脚光を浴び、同時に侮蔑にもさらされた「自由」を重んずる女性たちもまた、当時の「健全な社会」を構成する「健全な男たち」にとっては白眼視、ひいては敵視に値する「怪物」として受けとめられたのでした。

容易に想像がつくことだと思いますが、「新しい女」は当時の社会では批判的な目で見られていました。新しい女も「退化」(ディジェネレーション)の一形態だとすら考えられていました。保守的な人たちにとっては、規範から外れる人たちはみな退化の象徴だったのです。

本書p,56

本作の主要人物の一人ミーナは、その心のなかに確実に進歩的な情動を秘めていながら、表向きはどこまでも社会が望む「従順な淑女」として振る舞うことに尽力し、覆い切れない自らの思いを手紙や日記といった形で赤裸々に綴ります。そしてそれを読む者は、彼女の抑圧された心境に思いを馳せざるを得なくなって行くのです。

本章は「書簡体」という本作の構成と並んで、本作で強い印象を残し、本作以前に著された吸血鬼文学の嚆矢『吸血鬼カーミラ』でも重要な役割を果たす「女吸血鬼」の存在を通して、「追いやられた存在」の代表のひとつである「女性」と、そんな女性たちを脅かす存在であると同時に、奇妙な「解放者」としての存在感も併せ持つドラキュラの特異な立ち位置が浮き彫りにして行きます。

(略)つまり、女吸血鬼とは、内側に秘めている女性の性的な魅力や官能性が表に出たものだということです。自分の欲求や性的欲望を表明することは、当時は規範から外れることでした。そういう女性たちをモンスター化して世間は貶めたのです。ところが、ストーカーはこのことについてもおそらく両義的だったのでしょう。

(略)吸血鬼になりかけるミーナは「退化」して動物的になるというより、むしろ主体性のある存在として魅力を放ち、必ずしも否定的に描かれるわけではありません。

本書p,60

これらの一文から想起されるのは、男性性を象徴するジェダイと、女性性を代表するブレンドクの魔女との相克を描いた『アコライト』における、オーシャとカイミールの関係ではないでしょうか。自身の自由追求のためには人を人とも思わぬ冷酷な怪物カイミールですが、自己を保って生きて行くためにジェダイの光に背を向けざるを得なかったオーシャにとっては、彼の存在は闇の中で自らを導く解放者でもあり得たのでした。

自分自身をも喰らい尽くすかもしれないこの”怪物”と行動を共にすることを選んだオーシャの姿は、恐ろしいドラキュラに襲われ血を坐れるというおぞましい行為に直面しても、不思議にも抵抗する気が起きなかったというミーナの姿と重なります。

本章を読み進めるうちに、自らに忠実であろうとすればするほど日の当たる道を歩むことを望めなくなって行く「周縁」に生きる人々を率いるかのような、”邪悪な解放者”とでも呼ぶべきドラキュラ像が仄見えてくるようです。

「脅威」にして「解放者」の面影を匂わせるドラキュラ
(画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=ZTbY0BgIRMk
「脅威」にして「解放者」の役割を果たしたカイミール

【境界線上の人々】

「第三回、境界線上の人々」では、そのような社会にあって「女性」とともに抑圧の対象であった「退化した人々」、つまり精神異常者と断じられた人々を取り巻く世界が紹介され、前章で仄見えた「解放者」としてのドラキュラ像がより一層はっきりとした輪郭をもって迫ってきます。本章のテーマとなるのは「ケアとは何か」という問いかけであり、弱者をやさしく包み込む寝床になると同時に、弱者をやさしく押し込める棺桶とも成り得る「ケアの倫理」への問いかけなのです。

また、本章では『ドラキュラ』には有名なヴァン・ヘルシング博士を筆頭に、その弟子スワードといった精神科医が果たした役割が取り上げられます。彼らは病の苦しみに喘ぐ人々を手厚く「ケアする存在」であると同時に、ケアの名のもとに規範から外れた人々から声を奪う「抑圧者」ともなり得ました。ドラキュラに狙われる婚約者ミーナの身を気遣うジョナサン・ハーカーもまた、彼女を守るという大義名分のもと彼女を「安全な」物語の奥底に押し込めようとして行きます。ミーナはそんな婚約者の心遣いには感謝しつつ、自分から役割を奪おうとし、活躍の場を奪おうとするジョナサンの「騎士道精神」に複雑な思いを抱いて行きます。物語きっての好男子ジョナサンもまた、精神科医たちと同じく悪意なき「抑圧者」としての面影を見せるのでした。

この関係性をスター・ウォーズにスライドすれば、フォース感能力という特異な力を持った人々に力の使い方を教え、その生き方に指針を与える一方、教条からの逸脱を「ダークサイド」の名のもとに「抑圧」するジェダイたちの姿と瓜二つではないでしょうか。

ところが、両義性を特徴とするこの物語において、一つの性向に凝り固まった登場人物は存在しません。本章でフィーチャーされるのは医学の最先端を行くと同時に、前近代的な”まじない”や伝承の世界にも通暁するヴァン・ヘルシングの存在です。

ヴァン・ヘルシングは何の力を持って吸血鬼と対決するのか。もちろん科学の力で…と言いたいところですが、彼が頼るのは伝承の力です。つまり、ヴァン・ヘルシングもある意味ではレンフィールドと同じ、両義性を持つ境界線上の人なのです。

本書p,80

彼の姿はオリジナル三部作におけるオビ=ワンとベイダー、プリクエル三部作におけるクワイ=ガンの姿を彷彿させないでしょうか。先進的な科学技術が支配する世界にあって、目でも科学でも説明できない不可思議なもの「フォース」を奉じることで合理主義者たちから「カビの生えた骨董品」と揶揄される二人。

そして未来を見据えて行動することを是とするジェダイの大勢に背を向け「今この瞬間」を重視することで異端者とされたクワイ=ガンの三者は、ともに自分が属す世界の大勢を認めつつ、それ以外の側面の効用を重視することで、それぞれの形で”パンのみにて生くるにあらず”とされる人間に必要な「聖俗」「物心」の境界線上の「バランス」を体現した存在と言えるでしょう。

科学と非化学を駆使してドラキュラと戦うヴァン・ヘルシング(画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ドラキュラ)
科学が支配する世界にあってフォースの存在を説くオビ=ワン
未来を慮る大勢に背を向け”今この時”を重視するクワイ=ガン

【孤立する強者】

最終章「第四回、近代vs前近代の戦い」では、互いに相反する性質や考えを持つ者どうしである主要人物たちがその立場を超え、相互依存的に互いを必要とし合いながらドラキュラを追い詰め討ち果たすまでの軌跡を描くことで、ドラキュラの持つ最大の魅力と弱点とが語られます。

物語のクライマックスでは、ジョナサン、ミーナ、ヘルシング、スワードといった様々な立場の人々が一堂に会し、それぞれがそれぞれの役割を果たし合うことでトランシルヴァニアに逃走したドラキュラを追い詰めて行きます。著者はこの主人公たちの協力関係を、精神医療の手法の一つ「オープン・ダイアローグ」に例えます。

「医療者」、「患者」、「家族」がそれぞれ対等な立場で対話を積み重ねることで回復を図るというのがオープン・ダイアローグの要諦のようですが、まさにドラキュラに立ち向かう”医者”であるヘルシングとスワード、ドラキュラに襲われ自らも吸血鬼となるのも時間の問題の”患者”ミーナ、婚約者である彼女の身を案じ、事態の打開を願う”家族”ジョナサンが共闘して”病”の根源ドラキュラに立ち向かおうとする図式を思えば言い得て妙と言えるでしょう。

そして彼ら彼女らがそれぞれに定義し合ってきた立場を乗り越えて対等な協力関係を構築することで追い詰めて行くドラキュラは、彼らとは対極にある「孤立」の影を深めて行くのです。

最後の三章に書かれているのは、詰まるところ「力とは何か」と言うことだと思います。新自由主義がはびこる現代では、力とは効率や生産性や自立だったりします。一方で、この小説において最後に敵を倒す力はチームワークです。チームワークというものに最後の最後に光が当てられるのは、屹立する近代の自己を乗り越えようとすることを意味しているのだと思います。

本書p,112

本章において、ドラキュラは「最後まで屹立した自己」であると定義されます。「誰かと連帯して目標を立て、それに向かってともに戦うということができない近代人でした」と。

この図式は”弱者の連合”で成る反乱軍と、”強者の独裁”で成る帝国軍の関係性、そして”人々の繋がり”が生み出す力を重んずるジェダイと、”強力な一者”が振りかざす力を重んずるシスの関係性と相似形と言えるでしょう。いかなる時も一人屹立する強者の姿は、いかなる世にも広がる差別の土壌に苦しむ弱者たちに解放への憧れを催させます。しかし力強い「屹立」の正体は、かつて「追いやられた者」としてのルサンチマンがもたらした生き方でしかないでしょう。他者と交わらぬ孤立は他者と交われぬ孤独に過ぎず、その生き方を選んだ弱者たちは、これまでとは異なる生きづらさの土壌へと導かれるに過ぎないのです。

それでも弱者たちは仮初の「名誉ある孤立」に憧れます。うっすらとその正体を察知する者たちも、今この瞬間に自分を蝕む生きづらさの土壌から離れることをひたすらに乞い願っているのではないでしょうか。ある者はもはやそこにしか居場所を見いだせずに、ある者は何かに巻き込まれるように、追いやられた人々は「吸血鬼」となり、力強く屹立し、人々に畏れられ、そしてたったひとりで滅んで行くのです。その悲惨な運命を免れさせるものは、どれだけ月並みな答えであろうと、結局のところ人と人との繋がりの回復でしかないのでしょう。

他者との協調によって強い力を引き出すジェダイ
強い「個」でありながら常に敗北の道をひた走るシス

著者は本書の結論として、『ドラキュラ』とは「究極の偽装小説」であると評します。どんな時代にも通用する「マッチョな怪物退治」という体裁を取りつつ、そのじつ「マッチョな男社会」に追いやられる女性や少数者の苦しみ、そして奇妙な解放者として登場するドラキュラの存在に、いつの間にか思いを馳せさせる物語なのであると。

スター・ウォーズもまた、今や「究極の偽装物語」と言うことができるかもしれません。もちろんもとはと言えば「少年たちのための映画」というルーカスの言葉に象徴される勧善懲悪の物語として誕生したスターウォーズですが、上映当時から現在に至る五十年近いアダプテーションの積み重ねは、もはやこの物語を、そのようにシンプルに読み解くだけでは物足りないものとしています。1970年代このかた、多くの時代を生きる者たちに鑑賞され批評され続けてきたスターウォーズは、様々な人々の様々な読み解きと表現とを吸収しつつ、もはや勧善懲悪では捌き切れない物語的深みを獲得して行きました。

今後もまた、この物語は多くの人々の鑑賞と批評、そしてアダプテーションを受け入れつつそのテーマを積み重ね、読み手に応じてその姿を千変万化させる「古典物語」としての厚みをいや増して行くことでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました