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私は、ドゥークーやアナキンに対して「堕落」という言葉を用いることは、実のところ不適切なのではないかと考えています。真の意味で堕落したのは、むしろオビ=ワンであり、ヨーダである。その理由を以下に述べていきます。
【『堕落論』×スター・ウォーズ】
今回種本とするのは『堕落論』及び『続堕落論』です。
ともにデカダン作家として知られる坂口安吾の代表的な随筆であり、敗戦間もない1946年(昭和21年)に発表され、大きな反響を呼び起こした作品です。両随筆は各十ページほどに過ぎない小品だが、その内容は果てしなく含蓄に満ちています。その大意とするところは次の一文、
「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
角川文庫『堕落論』p,101
に集約されていると言えるでしょう。ここで言う「堕落せよ」というのはなにも人の迷惑顧みず、犯罪行為上等の身勝手な生活をせよというのではありません。各々が教育や社会常識を通して押し戴き、その行動規範としてきた諸々の「秩序」を打倒し、「自らのモラル」を獲得することの重要性を説くものです。敢えて単純化すれば「人に言われたこと真に受けてねぇで自分の頭で考えろ、話はそれからだ」ということと言えるでしょう。
安吾が取り上げた行動規範とは主に天皇制、そしてそれに基づく武士道です。日本の歴史の土台となり、日本人の精神性の土台となってきたと言えるこれら制度の行き着く先に、軍部専横と太平洋戦争の開戦と敗戦、そして当時叫ばれた「人心の荒廃」を迎えました。しかし全てを失ったいまだからこそ、人々は長く自分たちを守り続け、同時に縛り続けた金科玉条の福音または呪縛から脱し、各々が各々の規範をつくり上げて行くべしと説いたのです。
日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。
角川文庫『堕落論』p,100
と。これをスター・ウォーズ世界に敷衍して私流に言い換えるなら、
ジェダイは負け、そして騎士団は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて「人間」が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真にジェダイを救い得る便利な近道がありうるだろうか。
とでもなるでしょう。

【堕落の効用】
安吾は両随筆で、堕落とは人間がその本来の姿に帰ることであり、既存の秩序や道徳といった、正しいには違いないがしょせんお仕着せにすぎない外的規範の呪縛から自由になり、同時にそのために陥った孤独のなかに身を置きながら新たな自己認識に至る道であるといった意味のことを説いています。それに当てはめるなら、ドゥークーやアナキン、その他ジェダイたちの「堕落」は必ずしも真の意味での堕落とは言い難いのではないでしょうか。
一般にジェダイがシスとなること、またそこまでではなくとも、いわゆる暗黒面に足を踏み入れることを「堕ちる」、または「堕落する」と呼び習わしています。光の道から闇に落ち、ジェダイにはあるまじき不品行に手を染め、心の健全を失い、悪の道を歩む生き方を選ぶことというのはまさしく辞書通りの「堕落」ですが、『続堕落論』で安吾はこうも語ります。
堕落自体は常につまらぬもので、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独と言う偉大なる人間の実相が厳として存在している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただみずからに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
角川文庫『堕落論』p,110
では彼ら「堕落ジェダイ」に「孤独」はあったでしょうか?
「堕落」とは一般的に「あるべき姿」や「正しさ」を投げ打った、「無責任」で「気楽」な生き方だと思われます。しかし、無責任な気楽さには世にも人にも見捨てられ軽蔑される「孤独」が必ず存在します。それは当人が気づこうと気づかなかろうと、あるいは気づかぬふりを決め込んでいようと、確実にその者の心をえぐり、浸食し、変容を促して行くのです。
ならばそんな自傷的な生き方に足を踏み入れることはキッパリよして、誰恥ずることなき日の当たる道を歩めばよいのですが、人間誰しも好き好んで堕落するわけではありません。堕落には必ず当人にしか解らない「切実」が存在しています。ドゥークーならば、あるべき道を外れたジェダイ騎士団の在り方への義憤だったでしょう。アナキンならば、パドメへの許されぬ恋であり、その他愛する者たちへの執着であり、すべての抑圧の源であるジェダイ騎士団への複雑な葛藤だったでしょう。
その屈託が道理に適ったものであったかどうかは正直どうでも良いことと考えます。人間の苦悩を推し量るのに客観性など何の意味があるでしょうか? とにかく彼らはそれぞれに自らの葛藤抑えがたく、それぞれの方法でジェダイ騎士団という規範からの「堕落」を遂げざるを得なかった。それは、むしろ良いことだったと言えるでしょう。
「寓意に満ちた神話」でもあり「リアルな人間ドラマ」でもあるスターウォーズはどのような「縮尺」でも楽しめるものですが、今回はそれをグッと大きくとって眺めてみます。よってここでは、彼らの堕落に至った客観的正当性や、それが生んだ不幸や被害といった実際的な側面は措いて、ただその意義だけを見つめたいと思います。
それぞれの決断の果てにドゥークーはジェダイを去り、アナキンはジェダイを滅亡させました。その可否もまた、今回のテーマでは善悪理非を問うのは無意味です。今回のテーマにおける最大の問題点は、せっかくの「堕落」という境地に達した彼らが、その最大の効能である「孤独」に陥ることができなかったということです。よって彼らは永遠に独力では救われぬ無間地獄をさまよう残酷な運命を歩むこととなってしまったと言えるのです。


私は常にスター・ウォーズという物語は「他者との共生」を大テーマとし、暗黒面とは「他者との断絶”の寓意である」と考えています。よって「孤独にならねば救いはない」というのは矛盾と読めるかもしれませんが、「他者との共生」とはただ単に他者と共に生きていればそれで良いというわけではないことは自明でしょう。
他者とともに生きるためにはまずは「自己の確立」が不可欠です。そして自ら以外に頼る者なき「孤独」は、自己を確立するために不可欠な環境と言えるでしょう。とくに一度「正しい道」を歩むことへの葛藤を抱いてしまい、そこからの逸脱を味わってしまった経験がある人間にはなおさら、良くも悪くも周囲の人々とは違う地平を眺める者としての自己規定が必要ではないでしょうか。
「正しい道」から堕落した人間が救われるために必要なのは神でも悪魔でもなく「孤独と自己との向かい合い」ではないでしょうか。ただ孤独だけが、正しい道を信じることができず、かつて自らが歩むと誓った道に背を向け、ときに唾を吐くという周囲からの非難と自らの良心の呵責に苦しまざるを得ない堕落者を、痛みとともに癒すバクタ・タンクなのではないでしょうか。
道を誤り道に背いた者は、孤独の苦しみの中で悶えつつも考え、感じます。それはこの上もなく辛く、苦しく、しかしこの上もなく貴重で、尊い体験です。ところがせっかく――という言い方を敢えてすれば――「堕落」という境地に達したにもかかわらず、孤独の痛みに耐えかね、そこで思考を放棄し、安易な自己正当化に逃げ込むことで「堕落」の効能を放棄する者たちが多いのもまた現実です。


【偽りの堕落者】
ドゥークーやアナキン、さらに過去の堕落ジェダイたちが、せっかくジェダイという規範を飛び出し得たというのに、ほぼそのまま、傍らで大きく口を開けるシスの規範の中に自ら飛び込み、飲み込まれてしまったのと同じです。
さきほど引用した文章の続きにはこうあります。
善人は気楽なもので、(中略)社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人荒野を歩いて行くのである。悪徳とはつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、(中略)この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。
角川文庫『堕落論』p,110
旧共和国時代のジェダイたちを物語るレジェンズ・コミック『Talles of the Jedi』の登場人物ウリック・ケル=ドローマやエグザ・キューンもまた、暗黒面に落ちた途端人が変わったように世界征服といった誇大妄想的な野望に突き進んで行きました。私はその不自然なまでの人格変容を「自分が正しいと思える世界の獲得」を目的とするものではなかったかと考えます。
ジェダイとしてあるまじき禁忌を犯したことへの罪悪感に耐え切れず、自分を正当化できる世界を欲したのではないかというわけです。そしてそれは「ジェダイの異端」として誕生したシスの生き方の根底に横たわる問題点であり、本質的に「他者に興味がない」くせに、不可解なまでに「他者の支配」に執着するシスの性向の根本理由ではないかと考えるのです。
つまり彼らは、彼らなりの「正義」を掲げ、彼らなりのやり方で「善人」になろうとしていたのではないでしょうか。つまり「負い目や痛みを感じる必要のない人間」になろうとしているのではなかったでしょうか。それではせっかくの堕落も片手落ちです。孤独と痛みを引き受ける覚悟のない堕落は単なる逃避であり落伍に過ぎません。ヨーダがかつてルークに語った「ベイダーはジェダイの落伍者に過ぎん」とは、まさにこのような意味においてではなかったでしょうか。


ドゥークーもアナキンも「堕落」しましたが、堕落に伴う孤独を引き受け、それに耐えて考える代わりに誰かに従属し、自分の苦しみを力や支配で覆い隠すという「安易な道」を選らんでしまったのです。
私はパルパティーンことダース・シディアスこそがスターウォーズにおいてもっとも恐ろしいキャラクターであると考えますが、その理由はまさにここにあります。ドゥークーもアナキンも、硬直したジェダイの道から堕ちたことで新たなる何者かになれたかもしれません。仮にジェダイが共和制末期のように硬直していなかったとしても、往年のジェダイ騎士団に存在した優れた制度「ウェイシーカー」のように、自らの思想と感情に基づいて既存の権威や秩序から自由になり、その後も自らの思想と感情に忠実に己の道を歩み続けていたならば「自己のモラル獲得」―スター・ウォーズの下敷きの一つと言える『千の顔を持つ英雄』の著者キャンベル流に言えば「英雄の旅路」―を、自己流に歩み得たかもしれません。
しかしシディアスの謀略と人心掌握によって「彼らの道」は「シスの道」へと置き換えられました。彼ら一世一代の「未知への跳躍」は、単なるジェダイからシスへの「宗旨替え」に矮小化され「ある支配構造から別の支配構造へ自分を位置づけ直しただけ」にされてしまったのです。おかげでドゥークーもアナキンも、いったん他者の住まう世界から切り離されながら自己を確立し、再び他者が住まう世界へと帰還する「英雄」になるどころか、他者の住まう世界から切り離されたまでは良いが自ら考える能力も持てず、他者の支配の元で自身を取り巻く世界に固着するばかりの「傀儡」へと成り下がってしまったのです。私はここに、羽化に向かって歩みを進めていたサナギを玩ぶに似たシディアスの残酷を感じるのです。


【真の堕落者】
片や彼らとは真逆の道、つまり「真の堕落」を成し遂げたのがオビ=ワンとヨーダではないでしょうか。彼らの場合は堕落というより淪落や没落に近いものですが、それでも既存の権威や秩序、心のありようの多くに背を向ける生き方を、はじめは選ばざるを得ず、やがて選んだという点では既存のジェダイの規範からの「堕落」と言って差し支えないと考えます。
ノベライズ版エピソード3『シスの復讐』でヨーダはこう述懐しています。
「年を取りすぎたのじゃな。頭がかたくなりすぎた。古い方法しか認められんほど、傲慢じゃった。わしはジェダイを、何世紀も、何十世紀もまえにわしを訓練してくれたジェダイのように、訓練した。あの古いジェダイたちは、まるで違う時代に生きておったのに。銀河は変わったが、オーダーは変らなんだ。わしが変えることを許さなかったからじゃ」
ソニーマガジンズ『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』p,544
ジェダイ騎士団の長が900年近い歳月を生きた長命種のヨーダであるというのは物語的に意味のあることでしょう。歴史と伝統は素晴らしいものですが、その反面、過去への固着と未来への視野狭窄を招きます。過去は軽々しく葬ってはならないものですが、過去を崇め奉るだけではその組織に未来ありません。よって古今東西の物語には、素晴らしい過去を象徴する長老と、未来を担う若者との対立や和解が描かれるのです。スター・ウォーズ物語におけるヨーダの凄味は、一身でその両方の役割を演じたことにあると思っていますが、それはまた別の機会に語るとしましょう。
騎士団の滅亡と帝国の勃興、シス卿との対決を経て自らの在り方の誤りを悟り、図らずも既成秩序からの「堕落」を経験したヨーダは――もちろんそれに同意したオビ=ワンも共に――堕落の神髄と言うべき「孤独」に身を置くことを選びます。それは「執着を禁じ、フォースの意思を尊重する」と言いいながら、そのじつ「執着と自らの意思」がなければ存続不可能な「組織」を構成するという大きな矛盾を犯していたジェダイの生き方への反省だったと言えるのではないでしょうか。
もちろんそれはシス率いる帝国の追及から身を隠すためでもありましたが、それだけが目的ならばルークとレイアを手放す理由にならないでしょう。いつか再起を図ってシスと帝国を倒すということだけが目的ならば、この無限の潜在能力を秘めた双子を優れたジェダイ・マスターである二人の手元に置き、帝国の追及を逃れて人界と隔絶したダゴバやワイルド・スペースの辺境の星々といった僻地を転々としつつ徹底した英才教育を授けていれば、スカイウォーカーの双子は間違いなく史上最強クラスのジェダイとなり、やがては老ジェダイたちの延長としてベイダーを倒し皇帝を倒し、帝国を滅ぼし、ジェダイ騎士団を再興することにも成功していたことでしょう。
しかし無限の潜在能力と同時に、無限の可能性を秘めた幼子を日の当たる道から遠ざけ、人々と隔絶し、「ジェダイ」という、本来銀河に無数にある生き方の一つに過ぎない生き方で凝り固めるというかつての残酷を、この二人は選びませんでした。
二人の幼子はそれぞれの育て親の元で「自分の人生」を生き、「自分の葛藤」を味わい、「自分の選択」を行い、そして「自分の運命」を生きて行きました。ジェダイとなったルークと異なり、レイアは強いフォース感応力を持つちながら指導者・政治家としてその役割を果たしたように、ジェダイという生き方は、フォースと強く結びついた者が歩むべき義務ではなく、それぞれの選択の結果歩み得る道の一つに過ぎないという健全性を獲得したのです。


それは二人の老人が「堕落」と「孤独」の痛みと引き換えに選んだ道に実った果実であり、未来を担う者たちにもたらした自由であり、そしてかつて堕ちた”友”への、そして”弟”への意図せぬ救いの手でもあったと言えるでしょう。
旧来のジェダイに育てられながら旧来のジェダイの在り方を否定して見せたルークの選択によって、救済は不可能と断じられたアナキンは自らを救うことに成功しました。かつてジェダイというお仕着せの道から堕落し、異なるお仕着せの道に着地してしまったアナキンですが、血を分けた息子ルークを救うという決断をした瞬間、再びシスというお仕着せの道から堕落し、今度こそ誰かが用意した道ではなく、かつて心の底から湧き上がった、そしてふたたび湧き上がった、紛れもない自分自身の感情「息子への愛」に忠実に自らの選択を行ったのです。
安吾は堕落によってお仕着せのモラルを棄て去り、自らの頭で自らのモラルを獲得することの重要性を繰り返し訴えています。
人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う。要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう。この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
角川文庫『堕落論』p,109
ドゥークーは不徹底な堕落の果てに英雄になれず、傀儡として非業の死を遂げました。しかしアナキンは同じく不徹底な堕落によって英雄になれず傀儡としての「生きながらの死」を生きたものの、徹底的な堕落を生き延びた”師”と”兄”がみのらせた新たなる希望の呼びかけに応じて再び、そして今度は真の意味での「堕落」を遂げ、そして救われたのです。
まさに「堕落による救済」を遂げた感じのジェダイたちですが、その後の世界ではルークが新たな堕落を経験することになります。


【新たなる堕落】
シークエル三部作においてファンダムを分断した「ルーク没落」ですが、私は良質なプロットだと考えています。人間は高められた後も堕ち得るし、堕ちた後も再び高められ得るのであり、だからこそ面白いのではないでしょうか。またしても安吾の言葉を借りると、
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来を対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限または永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。
角川文庫『堕落論』p,114
となります。旧来のジェダイの道から徹底して堕落し、自らのモラルを獲得したルークですが、その後はやはり旧来のジェダイと同じ道を歩んでしまったようです。古きジェダイの書物を求め、ヨーダがかつて「あの古いジェダイたち」と評した先達たちの声に耳を傾け、往年のジェダイ騎士団の再興を目指しました。そしてかつての自分のように無限の潜在能力を秘めた甥、ベンの育成を決意し、かつて父がそうされたようにその心の奥底の不確かさを危険視し、不信に囚われ、そして全てを失ってしまったのです。
ここにルークは、一度獲得したはずの「自らのモラル」からの堕落を経験したことになります。しかしすでに何度も触れているように「堕落」とは「再生」の始まりでもあります。堕落したとはいえドゥークーやアナキンのように新たな主人に使えたわけではないルークは銀河史から姿を消し、未知の惑星オクトーでかつてのヨーダやオビ=ワンのように、まったくの孤独に身を置いて苦しみ、やがて新たな道を見出すことになるのです。それは「人々を守る者」ではなく「人々と共に在る者」となることによって。
レジスタンスの危機やレイの呼びかけに惑い、かつての師ヨーダの言葉に背を押される感じでついに歴史の表舞台に姿を現わしたルーク。しかしそれは誰もがイメージした「正義の守護者」「無敵のヒーロー」の帰還ではありませんでした。これこそがもっともファンの逆鱗に触れた部分であると思いますが、私の解釈はそうではありません。ルークは「大いなる力を持つ者」の神髄として、自分自身が人々を守り未来を守る者となってしまうのではなく「未来を繋ぐ者」としての役割を果たすべきと考え至ったのではないでしょうか。


そもそもジェダイが共和制の時代から掲げてきた理想は、自己神格化と紙一重のものでした。「力ある者が弱き者を助けるために戦う」という発想そのものは利他的で素晴らしい考えです。しかしこの考えは潜在的に危険を孕むものでもあるでしょう。
まず「守る」という行為は自らを主体とし、相手を客体としています。つまり銀河やそこに住まう人々を受け身の存在として捉えているとも言えるでしょう。これは「正義中毒」とまで言っては残酷ですが、人々のために戦う存在としての自分たちを自己神格化と誇大妄想へと導く危険を常に孕むものと言えるでしょう。そして独力で銀河の守護をまっとうできないジェダイたちは共和国という圧倒的多数者と運命共同体となることで体制の一員となり、乗り越えられるべき「規範」の一部となっていったのです。その行く末が共和制末期の騎士団の硬直であり、その先の滅亡だったのです。


銀河内戦の勝利も、レジスタンス・ファーストオーダー戦争の勝利も、ルークやレイ、ベンといったジェダイたちが無敵の活躍を繰り広げたからもたらされたのではないことは示唆的です。彼らが勝利を手にした要因は、あくまでも反乱軍の人々の活躍であり、レジスタンスの人々の活躍であり、民衆の艦隊に参加した人々の活躍にありました。ルークやレイ、ベンの戦いは飽くまで物語の哲学的側面を担うものであって、もちろん帝国やファイナル・オーダーの首魁パルパティーンを倒したという意味は重要ながら、直接的に戦争の帰趨に直結するものではなかったと言えるでしょう。
銀河に自由をもたらしたのは、そしてもたらすべきなのはあくまで「そこに住まう人々」なのであり、ジェダイはその手助け、または人々の心を燃え立たせる象徴として「共に在る」べきであり、クレイトに表れたルークに求められていた役割もまた、彼自身が縦横無尽の活躍を繰り広げてファースト・オーダーの軍勢を追い散らし、カイロ・レンを屈服させてヒーローになることではなく、数多くの失敗を積み重ねながら人生の晩年を迎えた自分を犠牲にしてでも、銀河の未来を担うレジスタンスの人々と、ジェダイの未来を担うレイをこの場は逃がし、その先につなげることにあったのではないでしょうか。
そしてこれは奇しくも、かつてデス・スターでベイダーと対峙し、過去にまみれた自分ではなく、未来を担うべきルークをこの場は逃がし、その先につなげげるため自ら死を選んだオビ=ワンと同じ決断となったと言えるのではないでしょうか。
失意にまみれたルークの前に表れたヨーダは語ります。
「学んだことを伝えよ。智惠はもちろんのこと。愚かさもだ。熟練した力も良いが、弱さと失敗もだ。何よりも、失敗を。最も偉大な師なのだ、失敗はな」
「わしらは、あの者どもに乗り越えられるべきもの。それこそが、あらゆる師に課せられた、真の試練なのだ」
講談社『スター・ウォーズ エピソード8 最後のジェダイ』p,275

そして後のドラマ『アソーカ』で、アナキンはアソーカにこう語ります。
「お前の中には僕のすべてがある。僕の有する知識がある。マスターを通じて代々受け継いできた遺産だ。お前もそれを受け継いでいる」
ドラマ『スター・ウォーズ アソーカ』第5話「影武者」劇中台詞

強さと弱さ。成功と失敗の道筋。それらを代々伝え、道を用意し、自ら道を踏み外し、教え子に道を踏み外され、また道を用意する。そのような永遠の失敗と堕落を繰り返しながら、ジェダイという生き方を選んだ者たちはそれぞれの成長を遂げ、それぞれの役割を見出し続けて行くのではないでしょうか。
【生きよ、堕ちよ】
「続堕落論」はこのような一文で締めくくられています。
我々のなしうることは、ただ、少しづつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにはいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。
角川文庫『堕落論』p,114
それぞれに細かな意味は異なるものの、ドゥークーもアナキンも堕落しました。ヨーダもオビ=ワンも堕落しました。ルークも堕落しました。彼から未来を受け取ったレイもまた、いつかどこかで堕落するかもしれません。ジェダイは滅び、蘇り、また滅んでは蘇りの兆しを見せてシークエルは幕を閉じました。今後その続きが物語られたとき、ジェダイはまた滅ぶかもしれません。そしてその灰の中からまたジェダイが現れるでしょう。
そのとき「ジェダイ」という「カラクリ」は、いえ、その時にはもはやジェダイという名ではなく、またその内実も変わってしまった新たなる「カラクリ」になっているかもしれません。遠い昔、はるか彼方の銀河に存在する、いや存在した事象を定義できるほど、私たちはその世界を熟知してはいないのです。
安吾は一貫して人間を守りつつ縛る政治制度、いや、政治に限らず規範たる制度というものを、人間を決定的に救うことはできない目の粗い網に例えています。それが天皇制であろうと武士道であろうと何であろうと、必ずやその目からこぼれ、その制度を破壊する者が生まれると。
天皇制というカラクリを打破して新たな制度を作っても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間に復讐される。
角川文庫『堕落論』p,112
しかし、といって人間にこのようなカラクリは不要で、法も秩序もなく各々が各々の好きに生きればよいというのではただの弱肉強食であり、それこそシスの生きる道でしょう。人間にできるのはただより良きものを求めて破壊と創造を繰り返して行くだけなのです。
この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は制度の、また、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかしてその反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
角川文庫『堕落論』p,11
こう考えればジェダイの堕落も、そしてもはやシスの存在すらも、フォースという、そもそも人間が感知すべきではなかったのかもしれない大いなるものを知り、繋がってしまった人々がより良く生きるために訪れる破壊の業風であり、再生への息吹であり、成長へのいざないであると考えることもできるかもしれません。
フォースに対する特別強い感能力を持つ者たちがより良く生きるために、ジェダイという生き方がそぐわなくなればそれを打ち壊すのもまたバランスをもたらす者の努めなのかもしれません。「選ばれし者」によって永遠にもたらされると予言された「バランス」ですが、私は一度取ることに成功すれば以降不変となるようなものは存在しないと思っていますし、永遠にバランスがもたらされるということは、永遠にバランスを取ろうとする者が現れるという意味ではないかと考えます。
かつてはアナキン、ルーク、そしてレイ、さらにその先へと繋がれて行くスカイウォーカーの衣鉢を継ぐ者たちは、常に堕落と孤独と決断に惑いながら永遠に同じ事の繰り返しと思える生を歩みながら、緩やかな螺旋を描くように、それぞれの時代にバランスをもたらしつつ高みに向かって行くのかもしれません。



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